スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

質疑応答210

【質問】


 ブログ「浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い」では、親鸞会を批判するサイトの首謀者は東本願寺と決めつけ、本願寺の木像本尊を批判しています。
 しかし、文献によれば蓮如上人は山科本願寺に木像本尊を据えられたと記録されていますし、覚如上人も形像本尊を下付されたとされています。
 このようなことを考えると、絵像・木像を礼拝しているからといって、必ずしも間違いではないように思いますが、いかがでしょうか。



【回答】


 浄土真宗において最も尊ぶべきもの(本尊)は、阿弥陀如来あるいは名号であることは常識だと思いますが、私たちを救う力があるのは金ピカの仏像でもなければ、紙に描かれた文字でもありません。これらのものは、マッチ1本で灰になってしまうものです。

 本当の阿弥陀如来や名号は、形のあるものではありませんし目にも見えません。ですから本来の「本尊」には形など無い(永遠普遍的なものである)と思いますが、ここでは「礼拝対象としての本尊」について説明していきます。

 もともとお釈迦様の教えには仏像や、紙に描いた本尊という発想はありませんでした。仏像が作られるようになったのは、お釈迦様が亡くなられて500年以上たってからであり、他宗教の文化の影響を受けて作られるようになったといわれています。つまり、本尊への礼拝は、古来の仏教の教えではありません。



 浄土真宗における本尊の意義について考えてみますと、親鸞聖人ご真筆の名号本尊の裏書には「方便法身尊号」と書かれてありますから、これは方便法身としての本尊ということになります。

 方便といいますのは、真実の分からない私たちを導くための手段として、相手に合わせて説かれる教えのことです。
 相手の考え方や習慣、仏教の理解の度合いによって方便の教えは変わりますので、「必ずこうでなければならない」というものではありません。

 ところが上記のサイトでは、

> 言うまでもなく仏教で本尊とは、
> 本来最も尊重さるべきものであり、
> 根本に尊ぶべきものであるから、
> 信奉者にとっては
> 唯一、絶対、永遠、普遍、不可分の
> ものでなければならない。


と主張し、親鸞会発行の「法戦4集」では、

> 教えに狂った絵像、木像を本尊としているようではその教えも狂ってしまうことは当然でしょう。そのような教えを求めていても絶対助からないのは当り前です。

と東西本願寺を攻撃しています。



 まず、名号本尊が「唯一・絶対」であり、木像・絵像では救われないのか、ということについて考えてみましょう。

 もし名号本尊を礼拝しなければ救われないのであれば、親鸞聖人は救われておられませんし、お釈迦様時代は本尊さえ無いのですから、誰も救われなかったことになります。



 なお、親鸞会発行の「こんなことが知りたい2」には、

> 親鸞聖人御自身、生涯御名号のみを本尊として仰がれただけでなく、弟子や同朋達にもお勧めになったという事実は、種々の記録によって極めて明らかです。(こんなことが知りたい2)

と書かれてありますが、実際は、親鸞聖人が名号本尊とされたのは晩年になってからと言われています。

 少なくとも、法然上人のお弟子であった時代に、師匠が木像本尊を礼拝しているのに反して、一人だけ名号本尊を礼拝していたとは考えられません。(まして比叡山ではありえません。)

 このように、親鸞聖人のなされたことにまで平気で嘘を書き、自分の都合の良いように歴史的事実をネジ曲げるというやり方は、親鸞聖人を尊敬する気持ちが少しでもあったならば出来ないことだと思います。



 また、親鸞聖人の書かれたものをどれだけ探しても、礼拝対象をどうすべきかということは、一切書かれていません。

 親鸞会が主張するように、本尊が「唯一、絶対、永遠、普遍、不可分」であり、「本尊が狂っていたら絶対に助からない」というほど重要なことであれば、なぜ一言も書かれなかったのでしょうか。

 覚如上人も、親鸞聖人が名号本尊を礼拝されていたという事実は記されていますが、だから名号本尊にしなさいとは教えられていません。

 親鸞会でやたらと重要視される御一代記聞書の「当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号というなり」のお言葉も、「(前々住上人)仰せられ候」と書かれていませんから、弟子の言葉であると考えられます。

(百歩譲って、仮に蓮如上人のお言葉だとしても、名号本尊が唯一絶対であるならば、「木像も絵像もダメ、名号のみが正しい」と説かねばならないはずであり、「木像よりは絵像…」と教えられた蓮如上人は嘘つきということになってしまいます。)



 つまり、善知識方の書かれた聖教のどこにも、礼拝対象をどうすべきかという教えは存在しないのです。

 もちろん、親鸞聖人が晩年に名号本尊を礼拝されていたのは事実ですし、あえて木像や絵像を本尊にする理由もありませんので、東西本願寺のやっていることが良いとは思いません。

 しかし、親鸞聖人が重視されたのは、「礼拝対象」ではなく「教えの内容」ですから、お聖教に書かれていないことを殊更に重視し、本願寺を攻撃するやり方には違和感を覚えます。

 要するに、名号本尊でなければ救われないという教えを捏造し、本尊を「本願寺を攻撃するための道具」として悪用しているだけではないでしょうか?



 もし、本尊について問題にするのであれば、お聖教に書かれてあるのは「本尊を取り返してはならない」ということと「本尊に知識の名を記してはならない」ということの2つだけです。(改邪抄)

 この両方に親鸞会は違反しています。

 ある講師が、「親鸞会の本尊は貸与なのだから、返すのが当然だ」と言っていたそうですが、親鸞聖人が本尊のレンタルなどをされたでしょうか?

 まして、退会しようとしている人の家に多人数で押しかけ、夜中の3時まで居座って返却を迫るというやり方は、明らかに改邪抄の教えに反するものです。

 また、親鸞聖人の御真筆の名号本尊に「親鸞」の2字を貼り合わせ、知識の名を記した本尊を捏造しています。

 さらに、低額で作成した本尊に対し、高額の御報謝を要求し、金儲けの道具として使っているとしか思えません。



 お聖教には無い「木像・絵像本尊」は異常なまでに問題にするのに、お聖教に明らかに反する「本尊とり返し、貼り合わせ本尊」を平気で行うということは、最初から教えに従おうという気が無いのだと思います。

 親鸞会にとっての「本尊」とは、「本願寺を攻撃するために」「やめようとする会員を引きとめるために」「金を儲けるために」最も重宝なものだという意味なのでしょうか?

 もしそうだとすれば、「本尊が狂っているから助からない」というのも当たっていると思います。
スポンサーサイト

COMMENTS

No title

本当にその通りですね。
有難うございます。親鸞会の間違いがよくわかりました。

No title

親鸞会は、親鸞学徒、といいながら、教えを忠実に守ろうという気がないですね。

七高僧の説を大切にしなさい、さらに私なし、仏教一つを説いてきた、ということは、皆わかっていることですよ。

ところが、ここにきて、七高僧の説や都合が悪いこと、矛盾が出てくると、見るな、聞くな、と大わらわ。昔はそんなこともなかったのに、動揺しすぎだよ。

ここを見ていると、いかに親鸞会が仏教ということに教えに暗いかがよくわかるね。

No title

本尊のレンタル(返却)と、名号本尊に「親鸞」の2字を貼り合わせは 笑わせる。
どれだけ 本尊を いいかげんにしとるねん。どの口で根本に尊ぶべきものと言うとルねん。だいたい、親鸞会はもはや、親鸞聖人やご本尊、教行信証、七高僧を尊んでいるか?阿弥陀仏に帰依しようとしとるか。 
違うやろ。今は、もう惰性で 親鸞会を辞められず、死んだら地獄が待ってるから。脅迫観念だけやないか。思考停止しとる人がほどんどやないか。それが人間の生き様か。
大丈夫か。終わっていると、気づかんか。
説法の丸暗記が信心の沙汰か。まったく疑問に思わんのか。

親鸞会の教義が唯一ということから離れきれんから、みんな同じことの繰り返しなんだ。それでは 盲信だぞ。

親鸞会の講師部メンバーは、自分たちがいかに無力で知識も体験もないか、知らされている。抜け出すことも、批判するパワーもない。だから今まで言われてきたことを、繰り返し叫ぶ位しか、手を打てない。
もはや、本気で法論なるものを公開でする勇気も蛮勇もない。

No title

本尊の取り返しについて、現役時代に担当講師から聞かされていたことは、
「親鸞聖人と高森先生では立場が違う。高森先生には親鸞聖人からお預かりした
正御本尊が粗末に扱われないようにお守りする責任がある」という主旨のことでした。

しかし、これこそ高森会長の計らいというものではないでしょうか。

高森会長の善知識は親鸞聖人であると聞いています。

その親鸞聖人が本尊を世間の財物のように取り返してはいけない、と仰ったのなら、
善知識への無条件服従を説く高森会長はその親鸞聖人の仰せに無条件服従すべきです。

自分の説いている教えを自分で破っているのですから、このような人の言葉は
信用するに足りないですね。

No title

本尊を取り返してはならないと改邪抄に書かれたのは覚如上人だが、覚如上人には、親鸞聖人からお預かりした正御本尊が粗末に扱われないようにお守りする責任は無かったのだろうか?

No title

ある明師は、
「当流は罪の沙汰無用なり。一として罪ならざる所作はなきゆえ。」と。

この清森問答では、是非、邪正がうんぬんされていますが、
問者も答者も、『是』や『正』がお目当てなの?
是や正を目指すと、信や往生や安楽から遠ざかるけど・・・

No title

是正が欲しい?さんへ。

それって、たぶん、質問されていますよね。
悪気はないとは思うけれど。重要なことと思うから
メールで清森さんに質問してみられたらどうですか。

ちゃんと答えてくれると思いますよ。

私は、教えには、正しい、間違いはあるし、論じる必要はあると思いますが。
それは、罪の沙汰とは別なのではないかと思います。


No title

本尊が狂っているから助からない

教えが、てきとうだから、助からない。


善知識でないから 助からない。

善と思ってやってたものが、悪だから、まるで仏教になっていない。

因果の道理がわかってないから 助からない。

昔は、尊敬できる人が先輩に多かった。

その人のいうことなら間違いないだろう、と思って、法も正しいと鵜呑みにしてしまった。

しかし、人がいい、と思っても、法が正しいとは限らない。

だから、人によらず、法に依れ、といわれている。

最近は、人がぼろぼろで、法だけはまともか、と思ったら、

よく見れば 法も 断章、パクリだった。

だまされた。それって 偽物。詐欺じゃないか。

弁護士も、悪の片棒をかついでいる者を悪徳弁護士という。

救われるか、どうか、は別にして、仏教の教えが、悪を見逃していい、というような教えで あるはずがない。

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

COMMENT FORM

TRACKBACK


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。