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質疑応答35

【質問】


>「若不生者」の「生」を、「信楽に生まれる」と解釈されたお言葉は、
>存在しないと思います。

とのことですが、確かに仏教の目的は成仏ですから
この「生」は浄土往生を指しているのでしょうが、
高森先生があえてこれを「信楽に生まれる」と教えられたのは
平生業成の教えをより鮮明にされるためでは
ないでしょうか。

「信楽に生まれる」とあえて解釈することで、親鸞聖人の教えを
 曲げることにはならないと思うし、むしろ願成就の教えを
 強調することになると思うのですが、いかがでしょうか?



【回答】


 私も、貴方と同じように思っていたのですが、今回、チューリップ企画の法論を読ませて頂いて、盲点をつかれた思いでした。

 どこかに、「若不生者」を信楽と解釈できる根拠はないかと探したり、世間の仏教書なども読み直してみましたが、調べれば調べるほど、田中さんの指摘が正しいことばかりが知らされました。

 私達は、信楽になりさえすれば、オートマチックに浄土へ生まれられると思い込んでいますが、これは阿弥陀仏が「必ず生まれさせる」と誓っておられるからです。

「若不生者の誓い」なくしては浄土に生まれることはできません。

 それに、誰よりも、平生業成の教えを鮮明にされた親鸞聖人でさえ、「若不生者」を「浄土に生まれる」と解釈されているのですから、私達の計らいで「信楽に生まれる」と変えてしまってよいのか、非常に疑問が残ります。

 なぜ親鸞聖人が、「浄土に生まれる」ことよりも、「信楽に生まれる」ことを強調して教えられたのでしょうか?

 それは、信楽に生まれた人は、必ず極楽に生まれられると、阿弥陀仏が保証されているからです。

 そのお言葉が「若不生者不取正覚」なのですから、これを「信楽に生まれる」という意味に取ってしまうと、「信楽になっても浄土へは生まれられない」教えになってしまいます。

 これでは、平生業成の教えの根底が狂ってしまいます。

 ですから、田中さんの指摘は、非常に的を射ていると思わずにおれません。


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