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質疑応答217

【質問】


 仏教では、善にも2通りあると教えていただいたように思いますが、違いを教えて頂けないでしょうか。(前回の続き)



【回答】


 今回は、「有漏善」と「無漏善」の違いについて説明します。

 仏教で「漏」とは煩悩を表しますので、煩悩の雑じる善を「有漏善」、煩悩の雑じらない善を「無漏善」と言います。
 私たちは「有漏善」を行うことはできますが、「無漏善」を行うことは出来ません。

「有漏善」は、私たちの我が付いていますので、相手から認めてもらえないと怒りや執着心といった煩悩を起こしてしまい、悪になってしまいます。ですから、五濁悪世の世の中では、この有漏善によって仏になることは非常に難しいと説かれています。


●菩薩、阿毘跋致を求むるに、二種の道あり。一つには難行道、二つには易行道なり。難行道は、いわく五濁の世、無仏の時において、阿毘跋致を求むるを難とす。(教行信証行巻)


 親鸞聖人は、五濁無仏の世の中において、自らの善によって仏を目指すことを「難行道」と仰っています。逆に言いますと、仏や菩薩に囲まれたような環境であれば、怒りを起こすような縁もありませんので、有漏善でも仏になることは理論上は可能です。

 一方、無漏善はどんな環境でも煩悩に染まりませんから、無漏善を行うことができれば、やがて必ず仏になることができます。具体的には、阿弥陀仏の本願力によってなさしめられる善、いわゆる他力念仏は無漏善ですので、阿弥陀仏に救われた人はやがて仏になることができると説かれているのです。



 浄土真宗で、一般的に「私たちには善が出来ない」と言われるのは、「無漏善は出来ない」という意味です。有漏善が出来ないという意味ではありません。
 私たちが思っているような善は、すべて有漏善ですから、そういう意味では「善はできる」というのが正しいです。

 親鸞会では、「善に励んだ者にしか、善の出来ないことは知らされない」と言って善を勧めています。もし、この理屈が正しいならば、「無漏善」を勧めなければなりません。
「無漏善」とは煩悩に染まらない善ですから、目標を与えたり、財施額や成果によって評価したり表彰するというのは論外です。

 繰り返しになりますが、「有漏善」は実行可能な善なのですから、私たちの生活において心がけていくのは大切なことです。具体的な心がけについては、次回説明させて頂きます。
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COMMENTS

No title

親鸞会公式サイトのマンガのところに、本太郎を主人公にしたマンガが出ています。
内容の低俗さにあきれますが、感想をきかせていただきたいです。
別の質問に答えられている最中の質問で失礼とは思いますが、よろしくお願いします。http://www.shinrankai.or.jp/b/tannisyou/hiraku-comic35.htm

No title

何度もすみません。続きです。
新聞に載っているマンガです。
http://www.shinrankai.or.jp/b/tannisyou/hiraku-comic37.htm
http://www.shinrankai.or.jp/b/tannisyou/hiraku-comic39.htm

このエントリを読んで、
「この教義安心理解だと、信益同時とはいえないし、名号願力の独用によって往生成仏せしめられるとも言えない。
信一念ではなく衆生の後続の称名を待って初めて往生の業因が成就することになり、往生のために能称の功をつのる事になる。真宗のみ教えにたがう理解だ」と言う人がありました。
確かにその人の言うように思われますが、
清森さんはどう思われますか?
すみませんがお答えよろしくお願いします。

もう一点すみません。
私達が生活上において善を行うという事と、
信心獲得するという事の間には、相関関係はあるのでしょうか?

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