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質疑応答218

【質問】


 仏教では、善にも2通りあると教えていただいたように思いますが、違いを教えて頂けないでしょうか。(前回の続き)



【回答】

 今回は、「有漏善」を行うときの心がけについて説明します。

「有漏善」といっても、「有漏善」という名前の善があるわけではありません。仏教で教えられる善を、煩悩具足の私たちが行うと、有漏善になってしまうということです。

 仏教で教えられる善には、いろいろありますが、特にその中でも重要な「供養」と「布施」について説明します。



「供養」とは、「供えて養う」と書きますが、狭い意味では仏や仏弟子に食物などを捧げて、その生活を支えることを言います。
「布施」は、広く他人に対して金品や仏法を施すことです。
 供養は相手を特定するのに対し、布施は相手を選ばないことが大きな違いです。



 まず「供養」ですが、仏や仏弟子は、一般の職業に就いていませんから、食物などの施しを受けなければ生活することはできず、当然布教もできません。
 ですから、仏の教えを受けたい人は、その生活を支えるために供養をしていました。

 仏や菩薩は、供養して下さった方に心が掛かりますので、当時の人たちは競って供養をしたのです。
 供養した人に心が掛かるというと不公平に思う人もあるかも知れませんが、仏教は「恩」の宗教です。生活を支えてもらい、恩のある人が苦しんでいるときに、その人を放って他人のところへ行くような恩知らずではいけません。

 例えば、韋提希夫人が王舎城で苦しんでいるときに、釈尊が説法に行かれていますが、苦しんでいる人は世界中にいくらでもいるのに、なぜ韋提希夫人一人のために王舎城に行かれたのでしょうか?
 これは、韋提希夫人が仏弟子に供養していたため、釈尊や仏弟子との関係が強かったためだと考えられます。



 このように、「供養」の性質としては、「他人のため」というより「自分のため」です。ですから、「恩知らず」には供養してはいけません。供養に値する人でなければ供養したつもりでも、善にはならないのです。

 仏教では、供養するに相応しい人を「応供」と言います。仏や菩薩である必要はありませんが、非常に高い徳を備えた人です。供養を受けたからには、その人の御恩に応える必要がありますから、誰でも彼でも供養を受けるわけにはいきません。たとえ仏様であっても、相手を平等に扱うことは出来ないのです。

 すべての人から供養を受け、すべての人を平等に救うことができる人のことを「大応供」と言います。ご存じの通り、阿弥陀仏の別名です。

 世間では「平等思想」というのがあり、どんな人でも平等に扱わなければならないと言われますが、それが実行できるのは阿弥陀仏だけです。私たちには、相手に対して平等に心を掛けることは出来ませんので、御恩のある人に心を掛けていくことが大切なのです。



 さて、仏や仏弟子のいない環境にある人は、供養はできないのでしょうか。広い意味では、徳のある人に施しをすることは、供養になります。徳のある人とは、恩を感じる心のある人です。

 人間の徳には個人差がありますから、徳の少ない人に、たくさんの供養をしてしまうと、期待したほど心を掛けてもらえず、怒りに変わってしまう可能性があります。相手に応じた、適度な供養に心がけることが大切です。



「布施」については次回説明させて頂きます。
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