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質疑応答3

【質問】

 疑情がなくなっても、本当に救われたのだろうか、と思う心(意業)は、起こりうると教えているのが上田君であり、それを高森先生は、否定はしておられない、ということで、よろしいでしょうか?



【回答】

 そういうことです。ただし、上記の内容は、上田君が過去に1回だけ話したことがある内容であり、いつも、このように言っているわけではありません。
 ポイントは高森先生は上田君のように、ハッキリとは仰っておられない、ということです。
それは

> >また、平成4年8月14日の教学講義では「如何なる振る舞い」の中に「阿弥
> >陀仏の本願を疑うことは入るか」という質問に、直接お答えになられずに、「ど
> >んな振舞もする。」とお答えになられました。
> この質問に上田さんの教え方を当てはめると「入る」と答えることになりますね。
                      ^^^
 まず、この質問にハッキリお答えになられなかった理由を明らかにしたいと思います。

「阿弥陀仏の本願を疑うこと」は、通常、「疑情」と意味で使われますので、信後には絶対出てこない心なのです。だから、「信心決定した人に、阿弥陀仏の本願を疑う心(=疑情)はありますか?」と聞かれたら、絶対に「No」です。

 ところが、この質問者は、「振る舞い」に入るかと尋ねているので、あくまで「意業」という意味で質問しています。「意業」であれば、どんなものでも起きうるので、一応、「入る」と言えます。

 つまり「阿弥陀仏の本願を疑う」という言葉は、二通りに取れるので、これに直接答えることは出来ないのです。下手に答えれば、信後も疑情が起きると勘違いされてしまいます。

 もし、「阿弥陀仏は本当におられるのかな~」という意業が絶対に起きないなら、高森先生は、迷わず「入りません」とお答えになられたはずです。「入らない」と言われずに「どんな振る舞いも入る」とお答えになられたのは、「意業なら入る」という御心と拝察いたします。
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