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親鸞会教義の相対化・2(質疑応答43)

 ある浄土宗の方から、「法戦」についての感想を頂きましたので、紹介させて頂きます。


          *           *           *


【信前の念仏を破る】1巻3章


正直申しまして、批判している親鸞会の人こそが「邪義」だと思いました。


 信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も
 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし
(『正像末和讃』66)


と親鸞聖人が仰っておられるわけですから、
疑心自力であったとしても、精一杯念仏申すことは、
絶対に勧めなければならないと思います。

もちろん、信前・信後の区別をおこなって、
信後の念仏を目指すことが大事だと思います。

ただしそれは、念仏に信前・信後があって、
その中で信後の念仏を求めるべきということであって、
信前の念仏を励むことを否定することとは、大いに違うと思います。

残念ながら、親鸞会の人と対決した人は挙げることができませんでしたが、


 往生を不定におぼしめさんひとは、まずわが身の往生をおぼしめして、
 御念仏そうろうべし。

 わが身の往生、一定とおぼしめさんひとは、
 仏の御恩をおぼしめさんに、
 御報恩のために、御念仏、こころにいれてもうして、
 世のなか安穏なれ、仏法ひろまれと、おぼしめすべしとぞおぼえそうろう。
 よくよく御案そうろうべし。
(『親鸞聖人御消息』25)


と親鸞聖人が仰っておられるわけですから、

●往生を不定におぼしめさん人(信前の人)
●わが身の往生、一定とおぼしめさんひと(信後の人)

共通して、念仏は絶対に申すことを勧めなければいけないはずです。

ちなみにこの文は、4巻の1章で親鸞会を批判した人が挙げてましたが、
その前段階の本尊の話で終わってしまって、うやむやになりましたが、
この文は、絶対に無視できないと思います。


私は、所謂「信前の念仏」に関する理論的意味づけが、
全くなされていないことが、親鸞会の致命的な問題だと思います。

これは、法然上人のお説きになられた理論などによって、
補っていく必要があるのではないかなと思います。

『無量寿経』に説かれる、阿弥陀仏の光明(十二光仏)について、
法然上人は『逆修説法』三七日において詳論しておられて、
その中でも、特に1)清浄光2)歓喜光3)智慧光が重視されていて、
念仏申す人に与えられる阿弥陀仏の光明の働きが詳細に書かれています。

内容を簡単にまとめると、

1)清浄光

 清浄光とは阿弥陀仏の無貪の善根によって生じた光明であり、
 その光明の作用は、人間の性欲の貪り(淫貪)と財欲の貪り(財貪)とに対して働き、
 不浄な貪欲を除きます。

 もしもこれを戒に例えて言うなら、不淫戒と不慳貪戒とに対応して、
 阿弥陀仏の無貪の善根によって生じた清浄光に触れるものは、
 これらの戒をたもつことができなくても、
 淫貪・財貪という不浄なものが除かれて、
 更に無戒・破戒の罪も滅されて、無貪善根の身となって、
 戒法を持った清浄な人と等しい存在になります。

2)歓喜光

 歓喜光とは阿弥陀仏の無瞋の善根によって生じた光明であり、
 その光明の作用は人間の瞋恚の煩悩に対するものです。

 もしもこれを戒に例えて言うなら、不瞋恚戒にあたります。
 阿弥陀仏の無瞋の善根より生じた歓喜光に触れるものは、
 不瞋恚戒をたもつことができなくても、瞋恚の罪が滅されます。

 すなわち瞋恚の増盛なる人でも、もっぱら念仏を修すれば、
 仏の歓喜光に摂取されて瞋恚の罪は滅せられて、
 忍辱の行を修している人と同じ身となります。

3)智慧光

 智慧光とは阿弥陀仏の無痴の善根によって生じた光明であり、
 その光明の作用は人間における愚痴(おろかさ)の煩悩に対するものです。
 
 この阿弥陀仏の無痴の善根によって生じた智慧光に触れるものは、
 久しく一切の智慧を学ばなくても、愚痴の罪が滅されます。

 すなわち愚痴・無智なるものでも、念仏するなかに仏の智慧光に照摂され、
 愚痴の罪は滅されて、さとった智慧あるものと
 勝劣の差がないほどの人となります。


このように念仏申すことによって、阿弥陀仏の光明によって、
名号の功徳が享受されて、そうすることによって、
宗教的人格が形成されていくあり様が窺えます。

ちなみにこの部分は、親鸞聖人が編纂したと思われる、
『西方指南抄』「法然聖人御説法事」にも省略されずに書かれていますので、
親鸞聖人が、この法然上人の教えを大切にされていたと、
浄土真宗を名乗るものは、受け取っていくべきだと思います。


そして、それは以下の法然上人の至誠心解釈とも関わってきて、
信心を獲得するプロセスにも、密接に関係してくると思います。


 至誠心と云うは、大師釈して宣わく、至と云うは眞なり。
 誠と云うは、実なりといえり。
 ただ真実心を、至誠心と、善導は、仰せられたり。
 真実と云うは、諸々の虚仮の心の無きを云うなり。
 虚仮と云うは、貪瞋等の煩悩を興して正念を失うを虚假心と釈するなり。

 全て、諸々の、煩悩の、興る事は、源、貪瞋を、母として、出生するなり。
 貪というについて、喜足小欲の貪有り、不喜足大欲の貪有り。
 今浄土宗に、制する所は、不喜足大欲の、貪煩悩也。
 まづ行者、かようの、道理を心得て、念仏すべき也。
 これが真実の念仏にて有る也。喜足小欲の貪は、苦しからず。

 瞋煩悩も、敬上慈下の心を、破らずして、道理を、心得ん程なり。

 痴煩悩というは、愚かなる心也。此の心を、賢くなすべきなり。
 まづ生死を、厭い、浄土を、願いて、往生を大事と、営みて、
 諸々の家業を、事とせざれば、痴煩悩無きなり。
 少々の痴は、往生の障りにはならず。

 これほどに、心得つれば、貪瞋等の、虚仮の心は、失せて、
 真実心は、易く、興る也。
 これを浄土の菩提心というなり。

 詮ずる所、生死の報いを、かろしめ、念仏の一行を、励むが故に、
 真実心とは云うなり。
「七箇條の起請文」(昭法全八〇八頁)


以下は、私がかつて別の所で書いた、
この部分に関する解説です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これは法然上人が、念仏を申す人の心構えを説いた
『七箇条の起請文』の一部ですが、

「まず至誠心というのは、
 善導和尚は解釈して『至とは真である。誠とは実である』といわれた。
 ただ真実心のことを至誠心と善導和尚は仰せられたのである。
 真実とはすべての虚仮の心のないのをいうのである。」

と、上の善導大師の解釈を受けて至誠心を説明されます。

しかしこれだけに留まらず、
「虚仮」というものがいかなるものであるかということを、
現実の人間の有様に即して説明されます。

「虚仮というのは、
 貪(むさぼ)りや瞋(いか)りなどの煩悩をおこして、
 心乱さずひとえに念仏する気持ちを失うのを、
 虚仮心と解釈するのである。
 すべて一切の煩悩がおこるのは、
 そのもとは貪りと瞋りとを母親として生まれ出るのである。」

虚仮の心(いつわりの心)が煩悩を起こし、
それが念仏を妨げます。
「煩悩」とは心の汚れのことです。
先ほど僕が、さまざまな心の汚れを起こし念仏を怠っている現状を述べましたが、
この説明は僕の現状そのものです。
そして、そういったさまざまな煩悩が、
貪りや瞋りをもとにしているとして、
それぞれを以下に説明されます。

「貪りというのについては、
 喜足小欲の貪(すでに得たもので満足し多くを求めない貪り)と、
 不喜足大欲の貪(すでに得たものでは満足できないでさらに多くのものを求める貪り)とがある。
 今、浄土宗で押さえようとするものは、
 後者の不喜足大欲の貪の煩悩である。
 まず念仏の行者はこのような道理を心得て念仏しなければならない。
 これが真実の念仏である。
 喜足小欲の貪はさしつかえがない。」

僕たちは、心の汚れを断ち切ろうとします。
しかし現実にはなかなかそれができません。
法然上人はそのことをよく見抜いておられたのです。
だから煩悩を断ち切れとは言いません。
心を綺麗にしろとは言いません。

しかし、何の努力もいらないというわけではありません。
不喜足大欲を喜足小欲に。
自らができる限りのことをすることを勧めます。
そしてできる限りのことを精一杯努力していく、
そう心得てお念仏を申していく有様を
「真実の念仏」と仰っておられます。

「瞋りをおこす煩悩も
 敬上慈下(目上の人を敬い、目下の人を慈しむ)の心をそこなわないで、
 ものの道理を心得ている程度のものであればよい。」

また心に瞋り、腹立ちが起きたとしても、
人が腹立ちを無くすことはなかなかできないけど、
それでも敬上慈下の心を失なわず、道理を心得ていれば、
それで十分であるとします。

「愚痴の煩悩というのは
 愚かな心である。この心を賢くすべきである。
 まず生と死を繰り返す迷いの世界を厭い、
 極楽浄土に生まれたいと願い、
 往生することが大事であるといそしんで、
 いろいろの家業のことにかまけなかったならば、
 愚痴の煩悩はなくなるであろう。
 少々の愚かさは往生の障害にはならない。」

そして愚かな心でも、その心の中に
極楽浄土に往生したい
という願いがあれば、
その愚かな心は極楽往生の障害にはならないとします。

「この程度に心得ていれば、
 貪りや瞋りなどの虚仮の心は消えて、
 真実の心は容易におこるものである。
 これを往生の菩提心(さとりを求める心)というのである。
 要するに、生と死を繰り返す迷いの世界の報いを重視しないで、
 念仏の一行を励むが故に、
 それを真実心というのである。」

このように、自らの心を浄らかにすることはできなくても、
自分のことを反省して、
少しづつでもよいので自分をよくしていこうと努力していく。
そして努力してもできないかもしれないけど、
極楽浄土に生まれたいと思い、
ひたすらにお念仏に励むならば、
それは真実心であると法然上人は仰っておられます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

浄土門において、信心決定に達するためには、
その手続きとし、法然上人のお言葉の通り、
至誠心に自分を向ける努力が不可欠であると思います。

この努力なくして、浄土門の信心を得ることは絶対不可能でしょう。

自分がとてもわがままであることを自覚し、
人に対する感謝の気持ちを持ちながら、自分の貪欲を押さえる努力をし、

自分のほしいままにする瞋恚の気持ちを抑え、
敬上慈下の気持ちをもって、人に接することを心がけ、

そして愚かさをのために、いろんな気持ちが出てくるけど、
何が本質かというのをよく考えて、
究極的には、全て往生浄土のために集約していこうとする。

先ずはつとめて実践して、
自分を変える努力をしなければならないと思います。

それなくして、棚からぼたもちみたいに、
信心が降ってくることなんて、絶対ないと思います。

そしてその道程において、
念仏申す人のみが受けることができる、
阿弥陀仏の光明による人間形成の働きは、
絶対に不可欠だと思いますし、それを否定するような教えは、
どんなことがあっても、認めることはできないと思います。



高森先生の説法をビデオでみた友人が、
高森先生が「信前の念仏を否定しているわけではない」と仰っていたのを、
聞いたそうなので、高森先生はぎりぎりセーフかもしれませんが、
親鸞会の人の中には、この批判をしているような、
完全にアウトな人も沢山いるんじゃないかなと思いました。




【邪義 念仏せよ、助かる】2巻2章

で高森先生と対決している人も、

一念=「一発目の念仏」

という解釈をしていたので、
大事な指摘をしているのに門前払いになりましたが、
念仏申すことを積極的に勧めた文章がまるでない、
親鸞会の本には、非常に問題があるというのは、
確かに、的確な指摘だと思っています。


法然上人の教えの真髄である『一枚起請文』には、

 ただ往生極楽のためには、
 【『南無阿弥陀仏』と申して疑いなく極楽に往生するぞ】
 と思いとりて申す他には、
 別の仔細候わず。

とあります。
法然上人の「選択本願念仏説」というのは、

一言で言うと、

【「南無阿弥陀仏とお念仏を申した人は極楽浄土に往生できる」
 というのが阿弥陀仏の本願であり、弥陀・釈迦・諸仏の選択である。】

という【】の部分が仏説(仏の言葉=真実)であることを信じて、
その言葉に従ってお念仏を申すことによって、
間違いなく極楽浄土に往生できる。

という教えだと思います。

そして親鸞聖人が言う「信心決定」の瞬間、
結局はこの【】の部分に全く疑いがなくなる瞬間だと思います。

ですから、【】の部分を信じて疑いが全くなくなった後(信後)はもちろんですが、
そうなる前のプロセス(信前)においても、
【】の部分に従って念仏を申すことは、絶対にしていかなければならない。
というのが、法然上人の教えであり、親鸞聖人の教えであるはずです。


信前・信後をあいまいにしたまま、漫然と念仏申すことを徹底して否定するのは、
高森先生の卓見だと思いますが、
そのために念仏を後回しにして疎かにする人々を、
浄土門の中に排出してしまっているのは、大問題だと思います。


 学生骨になりて、念佛やうしなはんずらむ。
「つねに仰せられける御詞」(四十八巻伝・巻二十一)

 ↑
どうも、親鸞会の人をみてると、こういう印象があるんです。。f^_^;



それから、上記の考えから、

http://houron.exblog.jp/7323219/

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

質問(5)齊尾裕史から福田支部長
福田支部長様


> ●蓮如上人の御文章には五重の義を教えられ、
> 「一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号、この五重の義成就せずは往生は叶うべからずと見えたり」とあります。
>  君にはこの五つが揃っていません。


たしか、五重の義は、要するに「信心一つで救われる」という意味だと教学講義で教えて頂いた覚えがあります(いつだったかは調べてからお伝えします。)

福田支部長の意見だと、信後の称名念仏の無い人は、救われていないということになりますが、唯信独達の親鸞聖人の御教を破壊することにならないでしょうか?


齊尾 裕史

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

というような齊尾さんの質問は、とても違和感を感じます。

こういう質問をしている齊尾さんは、
「唯信独達の親鸞聖人の御教」ということを強調しすぎるために、
念仏申すこと自体に対する価値を極めて軽視している、
親鸞会の「文化」の影響を極めて強く受けて、

念仏申すことを軽視し、頑張って念仏申す人をあざ笑っていませんか?

もしもそうであるならば極めて大きな問題であり、
私に言わせれば、「邪義」「異安心」も甚だしいと思っています。

上田さんに関しても前に申しましたが、
念仏申すことを軽視するようなことを言っているのであれば、
清森さんから注意して、速やかに改めて頂くべきではないかと思いました。

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