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親鸞会教義の相対化・3(質疑応答44)

(続きです)



あとこれは、ネット上にアップされている上田さんの説法でも、
清森さんの説法でも言ってたような気がしますし、
親鸞会に限らず浄土真宗全体に共通する問題だと思いますが、

浄土宗=浄土仮宗=二十願=念仏すれば救われる教え

というのは、事実無根の捏造された見解であって、
こういうことを言っているようでは、
他宗に尊敬されることは決してないし、
「宗我見」「独善的」と言われても仕方ないかなと思っています。

こんなバカなことを、まともな浄土宗の布教師は言いませんよ。f^_^;

法然上人はもちろんですが、二祖の聖光上人も、
信心を具足することの大切さを強調しておられます。


法然上人で言えば、

「所詮決定心を生ぜば往生すべき人なり」
(『聖光法力安楽三上人との問答』昭法全p.729)

「一丈のほりをこえんと思はん人は、一丈五尺をこえんと励むべし。
 往生を期せん人は、決定の信をとりてあいはげむべきなり」
(『つねに仰せられける御詞』昭法全p.495他)

「浄土の法を説くを聞きて信向し身の毛の堅つものは、
 過去にこの法門を聞きて今重ねて聞く人なり、
 今信ずるがゆえに決定して浄土に往生すべし」
(『逆修説法』、昭法全p.239、原漢文)

というのがあります。

また、法然上人の言葉には信と行を共に重視するものが圧倒的に多いです。

「浄土に往生せんとおもはば、心と行との相応すべきなり」」
(『往生大要鈔』、昭法全p.490)

「名号をきくといふとも、進ぜずば聞かざるが如し。
 たとへ信ずと云うとも、唱えるずば信ぜざるが如し、只つねに念仏すべし」
(『常に仰せられける御詞』、昭法全p.490)

「行は一念十念なおむなしからずと信じて、無間に修すべし」
(『一紙小消息』、昭法全p.499)

「一念十念にて往生すと言えばとて、念仏を疎相に申せば、
 信が行をさまたぐるなり。念々不捨と言えばとて、
 一念十念を不定に思えば、行が信をさまたぐるなり。
 かるが故に信をば一念に生まるととりて、
 行をば一形に励むべし」
(『禅勝房にしめす御詞』、昭法全p.464)

有名な所でもこれだけあります。他にもいくらでもあります。

そして『十二箇条の問答』の第六問答(浄土宗聖典p.442-444)において、

「三心が全て具わっているなら絶対に往生できるのだけれど、
 それが欠けていればいくら念仏しても往生はできない。」

と法然上人は仰っておられて、
法然上人が三心を具足することを強調していることは明白ですので、
法然上人を信奉している浄土宗の人間は、
当然ながら、三心を具足することを非常に重視します。



また、聖光上人の言葉で言えば、


 念仏の行者は、まず自ら三心を学し、往生を決定しての後、
 また他人において、三心を教えて、他人の往生を決定すべきなり。

 これすなわち自ら往生の大益を得、
 また他人も往生の大益を得せしむるべきなり。

 もし三心を知らずして、念仏を修する人は、
 自らも迷い、また他をも迷わすなり。
 故に三心の具不具をもって、往生の得不得を知るなり。

 三心はこれ念仏者の甘露なり。もっとも楽欲すべきなり。
 もっとも甘心すべきなり。

 これすなわち仏心と相応し、またまた善導の元意なり。
 
『浄土宗名目問答』(浄全巻十 p.400a)

とあります。

「三心を具足=往生の得」を主張しておられる聖光上人に、
勝手に捏造した枠組みを当てはめて、
それをもって浄土宗を批判することは、私には絶対に認められないことです。


確かに浄土宗は、念仏を多く申すことを「尊い」とする「文化」ですが、


法然上人は、『勅伝』巻二十一、「七箇條の起請文」(昭法全八一一頁)において、

「念仏の数を多く申す者をば自力を励むといふ事、これ又ものも覚え
 あさましきひが事なり。ただ一念二念を唱ふとも、自力の心ならん人は、
 自力の念仏とすべし。
 千遍万遍を唱え、百日千日夜昼励み努むとも、
 ひとへに願力を頼み他力を仰ぎたらん人の念仏は、声々念々、
 しかしながら他力の念仏にてあるべし。
 されば三心をおこしたる人の念仏は、日々夜々、時々刻々に、唱ふれども、
 しかしながら願力を仰ぎ、他力を頼みたる心にて唱え居たれば、
 かけてもふれても、自力の念仏とはいふべからず」

と述べておられて、

これによると、

●ひとへに願力を頼み他力を仰ぎたらん人の念仏=他力の念仏

ということになり、さらに三心を起こした人のお念仏は、
昼も夜も、一時一刻々たえずお念仏しても、
みな願力を仰ぎ、他力を頼むたる心で唱えするお念仏ということですから、

●三心を具足した念仏=他力を頼みたる心で唱える念仏=他力の念仏

ということになります。


そして、

「念仏の数を多く申す者をば自力を励むといふ事、これ又ものも覚え あさましきひが事なり。」

と法然上人が仰っておられますので、
念仏を多く申すことを否定することは、とんでもない誤りとなります。

また、

 百万遍の事。佛の願にては候はねども、小阿彌陀経に、若一日若二日乃至七日、
 念佛申人、極楽に生ずると、とかれて候へば、七日念佛申べきにて候。
 その七日のほとのかずは、百万遍にあたり候よし、
 人師釈して候へば、百万遍は七日申べきにて候へども、
 たへ候はざらん人は、八日九日などにも申され候へかし。

 さればとて百万遍申さゞらん人の、むまるまじきにては候はず。
 一念十念にても、むまれ候なり。一念十念にても、
 むまれ候ほどの念佛と思候うれしさに百万遍の功徳を、かさぬるにて候也。
『勅伝』巻二十三、「往生浄土用心」(昭法全五六〇頁)

という言葉が法然上人にあります。

これは『阿弥陀経』に基づき七日念仏を申せば百万遍の念仏になるけれども、
それが必要なわけではなく、一念や十念でも往生するお念仏であるので、
それを思うと嬉しくなり百万遍の念仏をするということです。

念仏を多く申すというのは、 数を多く申すことが功徳が多いからではなく、

 名号を聞くといえども、これを信ぜずば、これを聞かざるがごとし。
 これを信ずといえども、これを唱えずば、これを信ぜざるがごとし。
 ただつねに念仏すべし。
(「四巻伝」三、「九巻伝」二)

とあるように、信心が念仏申すことになって現れているわけですから、
信心の相続=念仏の相続なのであって、
これは、善導大師が『往生礼賛』説かれ、
法然上人が『選択集』に説かれている四修に基づくものですしね。



これは、実際に資料を確認しないままなされた批判であり、
今まで文化内に限定されて言われてきたことを、
そのまま鵜呑みにしてきた結果だと思いますが、
これを機に、こういう知的誠実さに欠ける態度は改めていって、
二度と言わないようにしていくべきではないかと思います。

そうすることによって、浄土真宗もまた、
他宗に尊敬されるようになるんじゃないかなと思います。


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