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親鸞会教義の相対化・4(質疑応答45)

(続きです)



あと、やっぱり他宗に対する寛容の欠如は、
私の仏教観からしたら、受け入れ難いものですね。f^_^;


高森先生は、創価学会から組織拡大の方法論を学んでおられて、
著書を読むと、創価学会の『折伏経典』に影響を受けた印象を受けるし、
高森先生が捉えている法然上人の教学というのも、
どちらかというと日蓮聖人が「捨閉閣抛」の存在として捏造した、
排他的な存在として位置づけらえていますが、

他宗に対する排斥は、法然上人の衣鉢を継ぐものは、
やっぱり厳に慎しんでいかなければならないと思ってます。


法然上人は、『七箇条起請文』において、

「一、 別解別行の人に対して、愚痴偏執の心をもて、
 本業を棄置せよと称して、あながちにこれをきらひわらふ事を停止すべき事。」

(学問及び修行の違っている人に向かって、
 愚かにして偏屈な心で、『自分自身の宗の教えに勤めているのを捨てよ』
 と言って、むやみに馬鹿にしたり、あざわらったりすることをやめなさい。)

と仰っておられます。

これは「起請文」であり、仏様に対する誓いです。
仏様に対する誓いと異なる真意などというものは、
法然上人には断じて存在しません。

また、この「起請文」には、

「制法に背く輩は、これ予が門人にあらず。
 魔の眷属なり。更に草庵に来るべからず。」

という言葉を法然上人は、添えておられますので、

仮に、浄土門で、他宗を誹謗するような人間がいたとしても、
その人は、少なくとも法然上人の教えを正当に継承した方ではない。
と思っていただきたいと思います。


また法然上人の実践面での結論とも言うべき『選択集』第十六章の言葉も、

「速やかに生死(しょうじ)を離れんと欲さば、

 二種の勝法の中には、しばらく聖道門を閣(さしお)きて、選んで浄土門に入れ。

 浄土門に入らんと欲さば、正雑二行の中には、
 しばらくもろもろの雑行を抛(なげう)ちて、選んで正行に帰すべし。

 正行を修せんと欲さば、正助二業の中には、
 なお助業を傍(かたわら)にして、選んで正定を専(もっぱ)らにすべし。

 正定の業とは、すなわち仏名を称するなり。
 名を称すれば、必ず生ずることを得。仏の本願に依るが故に。」

確かに、聖道門を「閣(さしお)き」雑行を「抛(なげう)ち」助業を「傍(かたわら)に」すると書いてありますが、

あくまで「速やかに生死を離れん」と欲し「浄土門に入らん」と欲し「正行を修せん」と欲する自己の問題であって、
これをもって排他の理論とするのは適切ではないんですよね。


それから、『選択集』の末には、

「一度ご覧になった後は、壁の底に埋めてしまい窓の前に残してはいけません」
と述べた後に、
「恐くは破法の人をして、悪道に堕せしめんことを」
と仰っておられます。

これは『選択集』に説かれた教えが、教法の誹謗と誤解されやすいので、
それを避けるためですしね。


これを踏まえて、日蓮宗と浄土宗の間に行われた「法論」である安土問答をみても、

(※現在はネットで少し検索するだけでも、簡単に調べることができます。
 ご存知でしたら失礼だったかもしれませんが、一応リンクを張っておきます。)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/6989//Saikouji.htm


結論だけ言うと、「『法華経』以前に妙(円)(=真理)があったか?」
という質問に答えられなくなって、日蓮宗が負けたわけですが、
その質問に対して「ある」と言った場合、
「法華経」以前の経典を誹謗した「日蓮聖人」が、
謗法罪で地獄に行ってしまうことになり、
「ない」と言った場合は、 仏教経典を誹謗したその人が、
謗法罪で地獄に行ってしまうことになるのではないかと思います。

ですから、日蓮宗側は浄土宗のその質問に答えられなくなって
沈黙して法論に破れ、織田信長の立会いのもと、以後一切他宗は誹謗しないと
誓約を立てたんだと思います。



日蓮正宗は日蓮宗とは別の宗で、その日蓮正宗から出た創価学会も別ですが、
日蓮宗の態度は、「仏教」という枠組みに留まる以上、
最低限必要なマナーではないかなと思ってます。

 「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」
 『法華経』譬喩品

と『法華経』に書かれているわけですから、
仮に創価学会と論争する場合も、
『法華経』そのものを誹謗しないように留意しながら、

1)『無量義経』「四十余年未顕真実」
2)『法華経』方便品「正直捨方便」

の二点さえ潰せば、教義論争としては専守防衛が可能だと思います。


1)に関しては、『無量義経』が偽経であることを証明した、
荻原・横超両説を紹介すれば、潰せると思います※。

2)に関しては、「方便」(UpAya.ウパーヤ)の用例ならびに、
『法華経』そのものを資料として、潰せると思います※※。

ただし、『法華経』そのものの功徳は間違いなく存在しますし、
唱題に関しても、理論上解釈可能だと思いますので、
それを否定するのは、仏教者の態度ではないと思います※※※。




「如来には決して虚妄はない」と、
恐らく釈尊が最後に説かれた『大乗涅槃経』で仰っているのですから、
凡夫の身で、それに対して「優劣」をつけるべきではないと思います。


法然上人は、


 どの経や論も、釈尊が説かれた、経とそれに基づく教えである。
 だから『法華経』や『涅槃経』などの大乗経典を修行して、
 仏になるということに、どんな困難があるだろうか。

 それに『法華経』は過去・現在・未来の時に、
 世におられる仏たちもこの経によって仏となられ、
 十方の世界におられる如来もこの経によって完全な覚りを得られた。
 それなのに『法華経』を読まれていただくのに、
 何の不足があるだろうか。

 このように言っている時代はまことに素晴らしいことであったが、
 今の我々の器量ではこの教えについていくことができない。

 その理由は『法華経』では菩薩や声聞と言われる、
 優れた境涯の人を相手とするからである。
 我々凡夫では、それに適わないと思うべきなのである。
(『念仏往生要義抄』昭法全六八二頁)


と述べておられて、

『法華経』に説かれる内容の素晴らしさを称賛する一方で、
菩薩や声聞のような、素晴らしい人を相手に説かれた教えである『法華経』が、
今の時代の三学非器である自分には適さないという、
厳しい自己反省と自覚に立っておられます。

経典は、全てが仏様の説かれた衆生救済のための素晴らしい教えであって、
それに対して愚かな人間が、勝手に計らって、
優越をつけることなど決してできないことですし、
そのようなことは許されることではないと思います。

そして、その修行に自分が適わなかった場合は、
仏様が説かれた教えや修行に欠陥や問題があると思うのではなく、
そんなに素晴らしい教えがありながら、
その修行に叶わない自分自身を、大いに反省すべきだと思っています。

法然上人はそのような方で、そういう求道の末に、
浄土三部経典に書かれたお念仏の教えに、見出された方なのですから、
その法然上人の流れを汲むものの経典に対する価値判断は、
そうあるべきだと思っています。




おまけです。^_^


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



●荻原雲来「無量義とは何か」(『日本仏教学協会年報』第七年)

この論文では、『法華経』序品において仏がまず説かれたといわれている、
「無量義」は何を指すかを論じた後、
漢訳『無量義経』の真偽が問題にされています。


『法華経』に説かれる「無量義」の原語、
マハーニルデーシャの意義を考察して、
「ニルデーシャ」が「無量に分別せられるもの」という意味で、
「諸法実相の一から無量の法(この場合三乗の教え)が発生する」
ということを示したものであって、

『無量義経』で言う「四十余年未顕真実」のようなものを、
指すのではないことを論証しています。

これは世親菩薩の『法華経論』に出てくる、法華経の十七の別名の一つに、
「無量義」があって、それが「教」と「理」との「無量」を指すことからも、
明らかです。(『岩波文庫 法華経』上 p.327)



そして『無量義経』が中国撰述である根拠として、

1)翻注が一様でないこと。
2)顕著なる訳語に二種類あること。
3)仏典中他に類例がない「菩提樹下端座六年」の語があること。
4)初説四諦、中説十二因縁、次説方等という諦・縁・度の三時配当は、
  後世の教判者の創唱するもので、無理があること。
5)用語文体が中国的であること。
6)内容的に『法華経』の要点を採録した感じがすること。

を挙げて、『法華経』を材料にして、
『法華経』の序文として作製された疑いのあることを論証されました。



●横超慧日「無量義経について」(印度学仏教学研究第二巻第二号)
後に、『法華思想の研究』(平楽寺書店)に収録(pp.68-83)

上記の荻原説を受けて、

1)経録において根拠とされた経序の信憑性に関する検討

2)経そのものの形式内容に関する多くの角度からの批判

3)この経が出現した時代の仏教学上の思想動向


という三つの観点から、更に考察を加えて、

 以上の如き事態を思う時、私は無量義経の如き法華経を解釈して頓悟義を実証せんとする経典が、中国において頓悟論者の側より編纂されるということは、恐らくかんがえられぬことでなかろうと思う。
それは経典たる権威を以って望もうとする所に、頓悟論者の積極的な攻勢というか術策というかとにかく優勢な活躍を認められるが、
しかし何分にも頓悟論者の側には在家者の支持が強くて教義に精通するという面では欠ける所があったから、
出来上がった作品としての無量義経には内容にも形式にもかなりに素人的な不手際さを免れなかった。

と結論付けています。



つまり『無量義経』は、翻訳上の訳語や内容からみても、
中国撰述の可能性が極めて高く、

仮に梵本が見つかったとしても、その原語から考えると、
「四十余年未顕真実」とは翻訳されませんから、

いずれにしても、つまり『無量義経』は、翻訳上の訳語や内容からみても、
中国撰述の可能性が極めて高く、

仮に梵本が見つかったとしても、「四十余年未顕真実」は、
根底から覆されてしまうことになります。


この説は、『仏典解題事典』(春秋社)にも、
紀野一義氏が無量義経についての項目を執筆し、
その中に「中国で撰述されたものと見てよいであろう」と
横超慧日氏の論文を引証しながらはっきり述べています。
『仏典解題事典』の編集責任者には、
水野弘夫・中村元・平川彰・玉城康四郎等、
日本の仏教学会の重鎮が名を連ねています。
さらに、『岩波仏教辞典』にも、『大乗経典解説事典』(北辰堂)にも、
無量義経に中国撰述説が学会に出されていることが明記されています。

そして、この荻原説・横超説を覆すような研究は今の所出ておりません。

もちろん、「学説」は「学説」であって、
将来覆される可能性が「絶対にない」とは言えませんが、
現時点で、荻原説・横超説を覆すような研究成果が出されていませんので、
学術的に荻原説・横超説を反駁することができない限り、
『無量義経』を議論の前提にしても、一切正当性を持ちません。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※※

【1】「方便」とは?

「方便」(UpAya.ウパーヤ)は、
「近づく」「到達する」という意味の動詞から派生した名詞で、
「仏の覚った真理に近づく手段・方法」のことです。

仏様の覚ったものは「真理」ですが、
その真理に人々を導こうとして説かれる教えや方法は、
それ自体「真理」そのものではありません。

「真理そのもの」を知ることができたら仏になれるわけですから、
仏様から人間に対して「教え」として説かれたものは、
全部「方便」であって、「真理そのもの」ではありません。

「自分の目的実現のためには他人にうそをつくことも仕方ない」という意味で、
「うそも方便」という言葉がありますが、
「方便」は本来、仏教語であり、
そこには「嘘」とか「虚妄」という意味はありません。


【2】『法華経』方便品における「方便」

 シャーリプトラよ、余を信ぜよ。
 余は真実を語る者であり、ありのままに語る者であり、
 確実なことを語る者である。

 如来が語る深く微妙な意味をもつ言葉は、
 理解しがたいのだ。

 それは何故かといえば、
 種々に説明したり解説したりして、
 しかも幾十万という種々の【巧妙な手段】を用いて、
 余は教えを明らかにしたからである。

 正しい教えは推理することもできず、
 推理の範囲を超え、如来のみが理解するところである。

 それは何故かといえば、
 如来は唯ひとつの目的・唯ひとつの仕事のために、
 この世に出現するからである。
 それは、偉大な目的であり、偉大な仕事なのだ。

 如来がこの世に出現する目的となった、
 如来の唯ひとつの偉大な目的、
 唯ひとつの偉大な仕事とは、一体何で何であろうか。

 それは如来の智慧を発揮して
 人々を鼓舞するためであって、
 そのために如来はこの世に出現するのである。

 如来の智慧の発揮を人々に示すためであり、
 またそれを人々に理解させ、分からせるためであり、
 また如来が智慧を発揮するに至るまでの道程を
 人々に理解させるために、
 世尊はこの世に出現するのだ。

 このことが、シャーリプトラよ、
 如来の唯ひとつの偉大な目的であり、
 唯ひとつの偉大な仕事であり、
 如来が世に出現する唯一の動機なのである。

『岩波文庫 法華経上』pp.89-91.岩本訳


ここで岩本先生が【巧妙な手段】と訳されているのは、
鳩摩羅什「方便」と訳している部分です。(前掲書p.88)


そしてこの【巧妙な手段】について、岩本先生は以下のように解説されています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ここに「巧妙な手段」とは梵語ウアパーヤ・カウシュルヤの訳。漢訳仏典ではこれを「善巧方便」と訳す。
「衆生を教え導くために仏・求法者が時と場合に応じて用いる巧妙な手段」の意である。

ここから「嘘も方便」というように「方便」という語が「目的達成のために利用される便宜的な手段」という意味に用いられるに至った。

 大乗仏教が興って、仏教は新しい宗教倫理を創造し、新しい神話・新しい世界観を発展させるとともに、新しい宗教体系として大きく展開した。
原始仏教の無神論的な性格は破棄され、ブッダは神格化された。
その哲学説では、原始仏教の縁起説を止揚して「空」の思想がクローズアップされた。

こうした新しい宗教としての仏教の展開の諸相を、大乗仏教徒は「仏の智慧」という語で総括的に表現し、
「仏の智慧は深遠で、見きわめがたく、理解しがたい」と説いた。
そして、この深遠な「仏の智慧」を知るには「この上なく完全なさとり」を覚らねばならず、
仏弟子の中で智慧第一といわれたシャーリ・プトラでさえ未踏の境地であるという。
しかし、仏教徒であるかぎり、それは達成されねばならず、仏も「仏の智慧」を広めるために、
種々の因縁・比喩でもって教えを説くとともに、さまざまな方便を用いて衆生を導く。

特に「巧妙な手段」として「仏の智慧」に達するには「仏の乗物」ひとつしかないにもかかわらず、
三種の乗り物を挙げて解説する。
そして、このような仏の言葉を信じて、善根を培い修行する人が「仏の智慧」に到達することができるという。
(前掲書pp.384-385)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

つまり『法華経』においても、「方便」は「嘘」とか「虚妄」という意味ではなく、
「仏の智慧」に到達するために不可欠な「巧みな手段」として説かれています。


【3】鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』「正直捨方便 但説無上道」

それでは鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』で、
「正直捨方便 但説無上道」と説かれているのは何故でしょうか。


 如來所以出。爲説佛慧故。今正是其時。
 舍利弗當知。鈍根小智人。著相驕慢者。不能信是法。
 今我喜無畏。於諸菩薩中。正直捨方便。但説無上道。
 菩薩聞是法。疑網皆已除。
 (前掲書p.128)


通常、この部分を和訳するとすれば、


 如来がこの世に出現したのは、仏の智慧を説くためである。
 今が正にその時なのである。

 舎利弗よ、まさに知りなさい。
 鈍根で小智の人や、姿形に執着したおごり高ぶる者は、
 この法(教え)を信じることができない。

 今私は喜んで畏れることなく、諸の菩薩の中において、
 正直に方便を捨てて、ただ無上道を説くことにしよう。
 菩薩がこの法(教え)を聞けば、疑いの網は、皆除かれるであろう。


と訳せると思います。

つまり、「正直に方便を捨てて、ただ無上道を説く」のは我(=如来)であり、

それ以前に何か「嘘」や「虚妄」の教えが説かれていて、
それを捨てるべきであるというような意味は、全く存在しないのです。


【4】サンスクリットからの検討

また、対応する岩本先生のサンスクリットの和訳を見ると、


 そのために、余はこの世界に生まれたのである。
 ここで、この最勝の「さとり」を世に弘めようと。

 現象で判断して偏見を抱き、うぬぼれている無知な愚かな者たちには、
 いま、信じがたいであろう。
 しかし、これらの求法者たちは耳を傾けて聴くであろう。

 そのとき、余はうれしくなり、自信をもち、ためらう心をすべて捨てて、
 仏の息子たちの真中で教えを説き、かれらに「さとり」を勧めたのであった。
 (前掲書p.129)


とあり、上記の私の訳文ならびに解釈が、
正確になされていることが確認できます。


しかも鳩摩羅什が「正直捨方便 但説無上道」と翻訳した部分は、
サンスクリット原文では、

 saMlIyanAM sarva vivarjayitvA(全てのためらいを捨てて)
(荻原他『改訂梵文法華経』p.56)

となっていて、岩本先生も「ためらう心をすべて捨てて」と訳しておられます。


つまり、

本来は、余(=如来)が「全てのためらいを捨てて」とあった部分を、

鳩摩羅什が、私(=如来)が「正直に方便を捨てて、ただ無上道を説く」と訳し、

更にその訳文を文脈を無視して特殊な解釈を行ったのが、


 『法華経』以前に何か「嘘」や「虚妄」の教えが説かれていて、
 それは捨てるべきである。


という主張なのです。


【5】まとめ

以上の考察で、


1、「方便」(UpAya.ウパーヤ)は、「仏の覚った真理に近づく手段・方法」のことであり、そこには「嘘」とか「虚妄」という意味はない。

2、『法華経』においても、「方便」は「嘘」とか「虚妄」という意味ではなく、
「仏の智慧」に到達するために不可欠な「巧みな手段」として説かれている。

3、鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』において、「正直に方便を捨てて、ただ無上道を説く」のは我(=如来)であり、
 それ以前に何か「嘘」や「虚妄」の教えが説かれていて、
 それを捨てるべきであるというような意味は、全く存在しない。

4、本来は、余(=如来)が「全てのためらいを捨てて」とあった部分を、
 鳩摩羅什が、私(=如来)が「正直に方便を捨てて、ただ無上道を説く」と訳し、
 更にその訳文を文脈を無視して特殊な解釈を行ったのが、

 『法華経』以前に何か「嘘」や「虚妄」の教えが説かれていて、
 それは捨てるべきである。

 という主張であり、事実無根の不当な主張としか言いようがない。


ということが明らかになったと思います。

以上の考察に対して、完璧な反証がなされない限り、
鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』の「正直捨方便 但説無上道」という記述に基づいて、
他の経典を否定することは、不可能であると思います。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※※※

 妙法華経の一偈一句を聞いて、乃至一念も随喜せん者には、
 我皆記を与え授く。当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし。
(『法華経』法師品)

このうち「乃至一念も随喜せん者には」は、
岩波文庫本のサンスクリット和訳で言うと、

「あるいは信心の心をほんのちょっと起こして、
 この経典を有難いと思っただけでも」

となっており、それだけでさとりに到達すると述べられています。

題目のうちの「妙法蓮華」の一句が、この一句に入ること、
および日蓮聖人やその教えを信奉する人が、
いかに妙法蓮華の一句や法華経を随喜し、
信心を起こしているかは言うまでもないので、

この箇所による限り、題目、および題目を通じて
『法華経』との縁を深め随喜している人々が、
順次生なのかいつなのかはわかりませんが、
成仏することは『法華経』という、一切経の中でも、
最も重要なものとして位置づけられている経典の保証しているところです。


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