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親鸞会教義の相対化・6(質疑応答49)

教学聖典の感想を頂きましたので、紹介させて頂きます。




清森義行様


『教学聖典』の方が読み終わりましたので、感想を送らせていただきます。

とてもよい本だと思いました。
このように集中的に、用語や教学上の重要ポイントを「詰め込み」しておけば、
この後の聞法も、すごくスムーズに入っていけると思いますし、
用語を沢山知っておけば、実際に文献を読んだ際に、
とても早く正確に読むことができるようになるので、
効果的だと思います。


ただ、通仏教的に言うと明らかにおかしいと思う部分や、
とても一面的で片寄った捉え方で、
どう考えても、親鸞会の外では通用しないと思われる部分がありましたので、
いくつか指摘させて頂こうと思います。

今後この本を使う際に、参考にして頂けたらと思います。
今回も、量が多いので何回かに分けて送らせて頂きます。


※実はめちゃいっぱいあるんですが、細かいのは省略して、
 特に気になったのを中心に指摘しておきます。



↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

『教学聖典』(1)【問3】

さとりといっても仏教では五十二あるが、それを示せ。
(1)十信
(2)十住
(3)十行
(4)十回向
(5)十地
(6)等覚
(7)妙覚



所謂「菩薩の五十二位」を「さとり」としてしまうのは、
大きな誤解を生じるのではないかなと思います。

通常「さとり」というのは、「成仏」のことですしね。
さらに、歴史上のゴータマ・ブッタについて扱っている部分で、
「さとり」を定義しているのですから、

所謂「初期仏教」の資料から、
「真理に目覚めた人」=「成仏した人」を定義すべきだと思います。

以下は、以前整理したものですが、よろしければご参照ください。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


【仏について】

まず、「仏」という言葉なんですが。
「仏陀」と漢字で書いたり、カタカナで「ブッタ」と書いたりします。
サンスクリット語では「Buddha」と書きます。

この「Buddha」というのは、√budhという動詞から来ています。

※サンスクリットでは、動詞はいろいろ変化するんですが、
 動詞の原形には、√をつけます。

√budhは「さとる」というように訳します。

この場合の「さとる」というのは、
日本語の漢字では「悟る」よりも、
「覚る」の漢字の方が近い意味を持つみたいです。

なんでかと言うと、「目が覚める」にも「物事を理解してわかった」
というのにも、√budhを使うんですよね。

それから仏教でいう「さとり」のように、
「真理に目覚める」というのにも√budhを使うので。
漢字としては「覚」の意味合いが強いんです。

この√budhに、中学の英語の時に習った「過去分詞」、
あの「過去分詞」にするために接尾辞の「ta」を付けます。

√budh+ta → Buddha

そうすると「Buddha」という過去分詞になります。
「覚った」という過去分詞です。

そんでももって、その過去分詞が名詞になって、
「覚った人」という意味を持つんですよね。

√budh「目覚める」 → Buddha「目覚めた」 → 「目覚めた人」

そんでもって、大事なことは、
「ブッタ」と言うのは「目覚めた人」「覚った人」という意味であって、
一般名詞だから、特定の人物を指さないわけです。

だから、仏教においてはお釈迦様に限らず、
「真理に目覚めた人」は、「仏」というわけなんですよね。


【初期仏教における仏の特性】

それでは、「真理に目覚めた人」=「成仏した人」
がどういう人かということになるんですが、
並川孝儀著『ゴータマ・ブッダ考』(大蔵出版) pp.22-64
に基づいて整理しておきたいと思います。

まず、韻文文献のスッタニパータでは、

 全宇宙の生滅と生きものの死して生まれかわる輪廻を考察し、
 汚れから離れ、汚れなく、清浄で、
 二度と生まれを繰り返すことがなくなった人、
 その人こそがブッダといわれる。(Sn.517)

というように、ブッダ(仏)の特性が明確に定義されています。
また、散文文献の偈文においても、

 過去世の境涯を知り、天界と地獄を見て、
 二度と生まれを繰り返すことがなくなり、
 証智に達した沈黙の聖者であり、清浄なる心を知り、
 貪りから完全に脱し、生死を繰り返す輪廻を捨て去り、
 清らかな行いを完成させ、あらゆる法に通じた、
 そのような人がブッダといわれる。(MN. vol. II p.144 91経)

と明確に定義されています。
余談ですが、この偈文のパラレルがスッタニパータやダンマパダにあって、
そこでは、ブッダのことを「真のバラモン」と言っているそうです。
(cf.『ゴータマ・ブッダ考』p.199)

さらに並川先生は、この他にも、
仏の特性を幾つかの観点から整理されています。

1)煩悩の滅尽などの関連表現

妄執を離れた(Th.491)
迷いの根本を滅した(ThI.320)
迷妄に陥ることがなかった(SN.I-4-5-7)
悪魔を征服した(Th.839)
執着がない(Dhp.419)
煩悩の矢を抜く最上なる人(Sn.560)

2)輪廻・再生などの関連表現

二度と生まれを繰り返すことがなくなった(Sn.517,647)
生死を繰り返す輪廻を捨て去った(MN.II p.144)
最後の身体を保った(SN.X-7-4)

3)三明・神通などの関連表現

生きる者たちの生と死をすべて知った(Dhp.419)
過去世の境涯を知った(Sn.647)
天国と地獄を見る(Sn.647)

4)解脱の関連表現

解脱した(ThI.320)
あらゆる点で解脱した(SN.II-1-9,II-1-10)

5)彼岸・涅槃などの関連表現

苦しみの彼岸に達した(ThI.320)
憂いと悲しみを渡り終えた(Dhp.195)
完全なる涅槃に入った(Th.1046)
あなたは自ら煩悩の流れを渡り終え、この人々を渡す(S.545,571,Th.839)

6)その他

心の安定した(Th.689)
しっかりと確立した(SN.I-1-4-5-7)
自制した(Th.689)
動揺しない(Dhp.422)
汚れのない(ThI.108)
沐浴者(Dhp.422)
迷っている神々と人間とに光を与える人(SN.X-7-4)
あらゆる生き物を慈しむ人(SN.I-1-4-5-7)
清らかな行いを完成した人(MN.II p.144)
決して恐れおののかない(Th.912,ThI.135)
あらゆるすぐれた特性を具えた(Th.1046)
よき境地に到った人(Dhp.419)
(真実を見る)眼をもつ人(Th.995,1258)
あらゆる生き物の中で最上の者(ThI.157)
太陽神の末裔(Th.26,158,417,1212,1258)


【固有名詞としての仏の特性】

以上が、初期仏教における仏の特性だったのですが、

この他に、お釈迦様、ゴータマ・ブッタ、釈迦牟尼仏のみの特性というのがあって、
これも、並川先生が指摘されています。

 あなたは覚った方(ブッダ)です。あなたは師です。
 あなたは悪魔を征服した聖者です。
 あなたは煩悩の根を断ち切って、自ら輪廻の流れを渡り終え、
 この人々を渡す。(Sn.545,571,Th.839)

この偈文の最後の「この人々を渡す」つまり「救済する」という宗教的属性が、
お釈迦様の弟子で覚った者なんかには見られなくて、
お釈迦様、ゴータマ・ブッタ、釈迦牟尼仏と結びついた偈文にのみ見られるので、
お釈迦様、ゴータマ・ブッタ、釈迦牟尼仏特有のものなんですよね。

この表現はこの他にも、

 あなたは苦を終結させ、超え、正しく完全に覚られた尊敬に値する方です。
 私はあなたが漏を滅尽された方だと思います。
 苦を滅する方よ、あなたは威光があり、思慮深く、広大な智慧を備えられ、
 私を輪廻の流れから渡してくださった。(Sn.539)

というスッタニパータのものや、

 調御して他を調御させる最高の方であり、寂静し他を寂静させる聖者であり、
 解脱し他を解脱させる最上の方であり、
 渡り終え他を渡す優れた方である。(It.p.123)

というイティヴッタカの用例があります。


【ジャータカにおける仏の特性】

この固有名詞の仏にのみ備わった特性である、
「渡す」「救済」するという特性は、ジャータカにおいては、
お釈迦様の過去世であるスメーダの理想であり、
同時に、お釈迦様の過去仏である燃灯仏の特性となってます。

 私は力を示す者として一人で渡ったとして一体何になるであろうか。
 私は一切智を得て、神々を含む世界の人々を渡すであろう。
 私は力を示す者としてこの力を尽くすことによって、
 私は一切智を得て、人々を渡すであろう。
 輪廻の流れを断ち切って、三つの生存を滅し、
 教えの船に乗って、神々を含む世界の人々を渡すであろう。(JA.vol.I p.14)

これは、お釈迦の様の過去世であるスメーダが、ディーパンカラ仏を拝し、
仏となるべく決意して述べた文ですが、
「人々を渡す」というのが、
過去世で燃灯仏という仏様を前にして誓う決意になっているんですよね。

また、燃灯仏(ディーパンカラ仏)を詠んだ偈文には、

 顎がしっかりとした肩幅の広いディーパンカラという名の仏は、
 多くの人々を渡し、悪趣より解脱させる。(JA.vol.I p.28)

 その偉大なる聖者の寿命は十万歳である。
 その生き長らえている間に、その方は多くの人々を渡した。(JA.vol.I p.29)

とあって、スメーダの決意や燃灯仏(ディーパンカラ仏)の行為として説かれる、
他者への救済は、これこそが仏の理想的な宗教性であると、
明らかに示されているんですよね。


あと、所謂「四弘誓願」の最初の「衆生無辺誓願度」という「度」は、
実はここからきていて、「度」は、さんずいを付けなくても意味は同じで、
この「渡す」という救済性、仏の理想的な宗教性なんですよね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

しかも「仏教では」と言っておられますが、
これは、天台教学における修道論であって、
通仏教的には通用しないものです。

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