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親鸞会教義の相対化・10(質疑応答54)

(続きです)

『教学聖典』(4)【問49】


「後生の一大事」とは、死後永く地獄で苦しむことであると明示された、蓮如上人のお言葉と、その根拠を示せ。

○後生という事は、ながき世まで地獄におつることなれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし。(帖外御文)



これは、蓮如上人の言葉なので、責任は蓮如上人にあるのかもしれませんが、
こういうことをあたかも「客観的事実」のように教えてしまうのは、
ものすごく配慮に欠ける行為だと思います。


 念仏の行者の存じ候ふべき様は、後世を畏れ、往生を願いて念仏すれば、
 終わるとき、必ず来迎せさせ給うよしを存じて、念仏申すより外の事候はず。

『勅伝』巻二十四、
「法性寺左京大夫の伯母なりける女房に遣はす御返事」(昭法全五八九頁)


というように、法然上人にも「後世」と言う言葉がありますが、
この場合は、今の命が終わって死後に生まれる世界、来世のことであって、
全ての人が地獄に堕ちるような意味ではありません。

もちろん、


 知らず地獄八熱の底にや、すみけん。
 恥ずるべし恥ずるべし、悲しむべし悲しむべし。
『勅伝』巻三十二、「登山状」(昭法全四一六頁)


と言う言葉はありますが、これは自分自身を内省した結果出てきた言葉であって、
それを他に当てはめて、恐怖を煽るような言葉ではないと思います。


 いづれの行もおよびがたき身なれば、
 とても地獄は一定すみかぞかし。
(『歎異抄』2章)


も、そういうコンテキストで理解すべきだと思います。


もちろん仏教では、輪廻・死後の世界を認めています。
「最初期の仏教は輪廻を認めていなかった」と主張する学者の方もいますが、
輪廻がないということは、死んだらそれでおしまいということになってしまって、
そうしたら最初期の仏教徒が、何から解脱するために
懸命に修行を行っていたかもわからなくなってしまいます。

インド思想の大きな流れからしても、
「兄弟宗教」とされるジャイナ教の教義からしても、
最初期の仏教が輪廻を認めていなかったというのはありえない話だと思います。

仏教経典でも最古層の韻文資料であるといわれている、
スッタニパータ(Sn.)の第四章や第五章でも、

「想いということを完全に知って、激流を渡るとよい。
 沈黙の聖者は、さまざまな所有物に汚されることなく、
 煩悩の矢を抜き去って、修行につとめ励んで、
 この世もかの世に対しても望まない」(Sn.779)

「両極端の中において、種々の生存に対しては、
 この世に対しても、また他の世に対しても、
 いまここで願うことがない」(Sn.801ab)

「愛し好むことが世にはびこったり、
 あるいは貪りが世にはびこったりすることは、
 欲望にもとづいて起こる。また、人が来世に関していだく希望と目的も、
 それにもとづいて起る」(Sn.865)

という表現が見られ、「この世もかの世に対しても」
「この世に対しても、他の世に対しても」「来世に関して」は、
いずれも輪廻そのものを表現する語句ではありませんが、
現世と来世という両世界が用いられている点から判断して、
輪廻という世界観を前提として表現であると考えることができます。

また、

「ピンギヤよ。それ故に、あなたは怠ることなくはげみ、
 再び迷いの生存にもどらないように、物質的存在を捨てよ」(Sn.1121cd)

「ピンギヤよ。それ故に、あなたは怠ることなくはげみ、
 再び迷いの生存にもどらないように、妄執を捨てよ」(Sn.1123cd)

という表現が見られ、どちらも再生することがないように戒めたものですが、
この「再生」という表現も、明らかに輪廻を想定できるものです。


さらに古層の韻文資料であるといわれている、
スッタニパータ(Sn.)の第一章から第三章には、

「全宇宙の生滅や生きる物の死して生まれる輪廻を考察し、
 塵から離れ、汚れなく、清浄で、二度と生まれを繰り返すことがなくなった人、
 その人こそがブッダといわれる」(Sn.517)

「この無明とは最大の無知であり、それによって永い間このように輪廻してきた。
 しかし、明知に至った生きとし生ける者は、再び迷いの生存に戻ることがない」
(Sn.730)

という「輪廻」という言葉そのものや、

「悪口を言いまた悪意を起こして聖者をそしる者は、
 10万ニラッブッダと36ニラッブッダの間、また5アッブッダの間、
 地獄に堕ちる」(Sn.660)

「正しい法に従って得た財をもって母と父を養え。
 正しい商売を行え。つとめ励んでこのように怠ることなく暮らしている在家者は、
 死後にみずから光を放つという天界に赴く」(Sn.404)

など、死後に赴く世界についても書かれています。

でも、それは全ての人が地獄に堕ちるということではありません。



善導大師の、

「自身は現に是れ、罪悪生死の凡夫、
 曠劫よりこのかた、常に没し、常に流転して、
 出離の縁有ること無し」

という言葉は、
信後に「深信因果」の深い内省でもって、
自分自身が罪悪深重の身であることを告白された言葉で、

現在の我が身を見た時に、「因果の道理」からいったら、
これから未来に渡っても
絶対に生死を出離することができないことを告白されていて、
【現在~未来】を見た場合は、
「このままでは生死を出離することができない!」という自覚となりますが、

【過去~現在】を見た場合は、過去世の業因による果報は、
現在まで生死を輪廻して凡夫として生まれた時点で受けていますので、
現在の在り方に、これ以上過去の業因が作用することはありません。

「善因楽果・悪因苦果」「自業自得」の業思想において、
悪業が苦を招くことはありますが、
苦果を受けたあと、その苦果が原因になって、
更なる苦を招くことは決してありません。

従って「深信因果」によって知らされることは、

●【過去】の悪因によって、
輪廻を繰り返し凡夫として生まれたという苦果を【現在】受けた。

●【現在】積み重ねている業が悪因となるので、
このままでは【未来】においては再び輪廻してしまうという苦果を受ける。

ということであって、それ以外の不条理に関しては、
決して過去の種蒔きというわけではなく、
個人ではどうしようもない、「悪縁」としか呼びようのないものの作用ということになるのではないかと思うのです。


過去の歴史において、仏教の業思想が、
現実の不条理に苦しんでいる人に、
「それは過去の悪業だ!」と言って、
更なる苦しみを与えた歴史が残念ながら存在しました。

この事実は、仏教者として真摯に受けとめて、
しっかりと反省していかないといけないと思うし、
そのことに対する批判は、
最終的に阿弥陀仏による無条件の救済を説く浄土門であっても、
避けることはできないと思います。


法然上人は深い懺悔の言葉を沢山残されておられますが、
同時にこういう問題に関しても、とても勇気付けられる
大切な言葉を残しておられるんです。

「正如房へ遣わす御文」において、

「五逆十悪の重き罪造りたる悪人なお十声一声の念仏によりて往生しそうらわんに、
まして罪造らせおわします御事は何事かそうろうべき。
たといそうろうべきにても幾程の事かはそうろうべき。
この『経』に説かれてそうろう罪人にはいい比ぶべくやはそうろう」

と述べおられるように、現実の不条理に苦しんでいる人に対して、

あなた方は自分が罪深い、罪深いと考えているが、
実際に何をしたというのか。
親を殺したのか、仏を傷つけたのか、
何もしていないではないか。
経典に述べられるような罪人と比べると、
大した罪など犯していないではないか。

というように過剰な罪業観に悩むことがないことを、
はっきりとお説きになっています。

さらに「十二問答」においては、

「かの三宝滅尽の時の念仏者と当時の御房達と比ぶれば、
当時の御坊達は仏のごとし」

というように、
末法万年後の人間と比べたならば
今のあなた方は仏のような存在である。

と語って、不当な罪意識から民衆の心を解き放っておられます。


だから私は、「因果の道理」というもは、
現在の種蒔きが未来に花開く根拠として説いていかなければなりませんが、
それでもって現在苦しんでいる人を裁き、更なる苦しみを与えることは、
決してあってはいけないと思います。

ですから上記のような蓮如上人の言葉は、
十分な配慮もなく「事実」のように軽々しく語ってはならないと思います。


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