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親鸞会教義の相対化・11(質疑応答55)

(続きです)


『教学聖典』(5)
【問28】

「宿善」とはどんなことか、二通りの読み方を示せ。
また宿善が厚くなる順から三つあげよ。

○「宿世の善根」とか、「善が宿る」とも読む。
(1)熱心な聞法
(2)五正行の実践
(3)六度万行の実践

【問40】

釈尊が、一切の諸善を六つにまとめられたものを「六度万行」と言う。その「六度万行」を示し、現代語で表現せよ。

○布施-親切
○持戒-言行一致
○忍辱-忍耐
○精進-努力
○禅定-反省
○智慧-修養



まず、信心獲得のために六波羅蜜を勧めた、親鸞聖人の言葉って存在しませんよね?

それに、波羅蜜(pAramitA)というのは、本来の意味は「完成・成就」という意味で、
通俗語源解釈で「彼岸の彼方に赴くこと」という意味を持ちますが、
あくまでもジャータカに書かれているような、
釈尊が前世に行ったような生き方を目指し、
それを「覚り」にふり向け、それぞれ「完成」を目指すのが六波羅蜜です。

私見ですが、六波羅蜜は大いに説いていくべきだと思いますが、
それ自体を目的とするのではなくて、

1)「聖道門リタイヤ」のプロセス
2)阿弥陀様から衆生に対する「廻向」

という方向に導くように誘導していって、
はじめて浄土門で六波羅蜜を説く意義が出てくると思います。


したがって、親鸞会で教えているような中途半端なものではなくて、
通仏教的な正しい意味を伝え、そのハードルの高さを知らせ、
「聖道門リタイヤ」のプロセスにしていかなければならないと思います。

そして、そのような凡夫にはリタイヤせざるえないような行を完成して、
それをふり向けてくださっている阿弥陀仏の有難さを知らしめる、
絶好の機会にしていくのが、六波羅蜜を説く意義だと思います。


業の理論は、「善因楽果・悪因苦果」と「自業自得」
という原則で成り立っているですが、
善因から楽果が生じ、悪因から苦果が生じるまでには、ある時間が介在します。

「盗みをして速攻で逮捕されてしまった」というように、
この介在する時間は、一瞬後かもしれないし、

あるいは時間がとても長く介在して、業の結果が及ぼされるのが現世ではなくて、
来世かもしれないし、次の次の生涯かもしれません。
そして前世やあるいはもっと前からの業の影響が現世に及んだ場合に、
それを宿業というわけです。


そして、善因が楽果に、悪因が苦果に、異熟して結果を出すまでのあいだ、
善因・悪因ともに、影響力を残します。

善因、すなわち善業(善い行為)が後に残す影響力を、
プンニャ(功徳・福徳)といいます。
悪因、わなわち悪業(悪い行為)が後に残す影響力を、パーパ(罪)といいます。

善因=善業→功徳・福徳(時間の介在)⇒(異熟)⇒楽果
悪因=悪業→罪    (時間の介在)⇒(異熟)⇒苦果


「善因楽果・悪因苦果」と「自業自得」という業の原則は絶対ですから、
例外はないのですが、
仏教においては「これを超越できる」としています。
それが「廻向」です。

仏教においては、悪業をやっての「罪」は、廻し向けることはできません。
他人に自分の罪をもらってくれということはできないんですが、
功徳の方は、他人に向けることができて、それを「廻向」と言います。

この「廻向」という考え方は、先祖供養という形で、
『増支部』「ジャーヌッソーニ章」(アングッタラニカーヤ、V269)にも存在しますから、
なにも大乗仏教に限らず存在した考え方です。
(藤本晃『功徳はなぜ廻向できるの?』国書刊行会参照)


そして阿弥陀仏の本願力は、阿弥陀様から衆生に対する「廻向」です。


 すべて薄地の凡夫、彌陀の浄土にむまれん事、
 他力にあらずばみな道たえたるべき事也。

 おほよそ十方世界の諸佛善逝、穢土の衆生を引導せんがために、
 穢土にして正覚をとなへ、浄土の衆生を化せんがためには、
 浄土にして正覚をなり給ふに、
 阿彌陀佛は浄土にして正覚を成て、
 しかも穢土の衆生を引導せんといふ願をたて給へり。

 その穢土にして正覚をとなふれば、随類応同の相をしめすがゆへに、
 いのちながからずしてとく涅槃にいりぬ。
 また浄土にして正覚すれば、報佛報土にして地上の大菩薩の所居なり。
 未断惑の凡夫は、ただちにむまるる事あたはず。

 しかるをいま浄土を荘厳し、佛道を修行するは、
 本意はもと造悪不善のともがらの、輪転きはまりなからんを引導し、
 破戒浅智のやからの、出離の期なからんを、あはれまんがためなり。

 もしその三賢を証し、十地をきはめたる、久行の聖人深位の菩薩、
 六度万行を具足し、請波羅蜜を修行してむまるるといはば、
 これ大悲の本意にあらず、

 この酬因感果のことはりを、大慈大悲の御心のうちに思惟して、
 年序そらにつもりて、星霜五劫にをよべり。
 しかるに善巧方便をめぐらして思惟し給へり。
 しかもわれ別願をもて浄土に居して、薄地低下の衆生を引導すべし、
 その衆生の業力によりてむまるるとはばかたかるべし、
 われすべからく衆生のために、永劫の修行をくぐり、
 僧祇の苦行をめぐらして、万行万善の果徳円満し、
 自覚覚他の覚行窮満して、

 その成就せんところの、万徳無漏の一切の功徳をもて、
 わが名号として衆生にとなへしめん。

 衆生もしこれにをいて信をいたして称念せば、
 わが願にこたへてむまるる事をうべし。

以上は、「登山状」(『勅伝』巻三十二)の一節ですが、

阿弥陀仏は、とてつもなく長い間の宗教的実践によって積み重ねてきた功徳を、
過去の罪である宿業に苦しむ衆生に「廻向」してくださっています。


その宗教的実践が、まさに「六度万行」なのですから、
親鸞会のような説き方は、やはり相応しくないのではないかと思います。


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