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親鸞会教義の相対化・13(清森問答57)

(続きです)



清森問答のコメント覽に、私に対する質問があったのですこし補足させて頂きます。

問答【53】の釈尊の言葉は、インド思想界に厳然として存在した輪回というものを、この生涯において完全に断ち切って、人類最初のブッダとなったことの偉大さを、象徴的に表した表現です。

それを漢訳佛典は全て機械的に「天上天下唯我独尊」と翻訳しています。


六道・三界等仏教の宇宙論・世界観に関しては、
 1)定方晟著『須弥山と極楽―仏教の宇宙観』(講談社現代新書)
http://www.amazon.co.jp/gp/redirect.html%3FASIN=4061157302%26tag=Lvdrfree-22%26lcode=xm2%26cID=2025%26ccmID=165953%26location=/o/ASIN/4061157302%253FSubscriptionId=15JBHWP7TH9QYT1RMHG2
 2)同『インド宇宙誌―宇宙の形状・宇宙の発生』(春秋社)
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以下の二冊に非常に詳細に述べていますので、
興味があれば、読んでいただけたらと思います。

1)は、仏教の宇宙論・世界観が、
『世起経』と『倶舎論』世間品に基づいて述べられています。

2)は1)の続編で、他のインド思想における宇宙論・世界観も書かれてます。
あと、『倶舎論』世間品に関しては、

3)櫻部建著『存在の分析「アビダルマ」―仏教の思想〈2〉』
(角川文庫ソフィア)

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にも、サクッとまとめてありますので、かなりお勧めです。



問答【55】は、
・六波羅蜜のハードルの高さを知ることによって、聖道門に適わない自分を知る=聖道門リタイヤ・その私にかわって、六波羅蜜を勤めその功徳を名号に込めて私に回向(回し向ける)してくれる阿弥陀仏この二つを知ることが六波羅蜜を説く意味だと私は思っております。

そのために、通仏教の六波羅蜜をそのまま伝え、一度は実践してみることを進め、同時に「完成」することの難しさ、大変さを伝えていくのが、浄土門における布教ではないかなと思います。


問答【56】は、
『大集経』巻55「月蔵分」第12(大正蔵経13,p.363a25-b5)にある、いわゆる五箇五百年の文章の取意と言われています。

cf.中井玄道編『教行信証 付録』p.309.等参照。

まあ道綽の引文と経文との相違が大きいのは、わりと有名な話です。
いずれにしても、道綽の引文からの「また引き」を確認もしないで、教科書に載せてしまったのは問題だと思います。



あと、これは教学テキスト全体に関して言えることだと思いますが、せっかく全文暗記するほど勉強されるなら、ついでに典拠も明記して、後々自分で学習する際の利便をはかるべきだと思います。

テキストの引用が誤った状態で、それに新たな意味を付け加えてしまうと、どこまでも元意からはなれた、独自の「思想哲学」「とんでも仮説」になってしまうと思います。


それから清森さんも仰っておられましたが、高森先生の説が全て間違っているということは決してなく、私がいくつか問題点を指摘しておりますが、正しいことも沢山仰っていることは事実です。
特に、高森先生が信心に関してとても明晰で鋭いものをもっておられることは、他宗の私から見ても、間違いのないことだと思います。

ただし、だからといって高森先生の説をそのまま見当を加えることもなく、鵜呑みにしてしまうことは大きな問題だと思います。

いつも思っているのですが、やっぱりどんな宗教においても、

聞→思→修

ということを、きちんとしていかないといけないと思います。

しっかりと教えを聞いた後に(聞)、
自分自身で、きちんと内容を検討して、とことん考えて
(思)、
そして、その教えに基づいた実践をしていって(修)、
はじめて、その宗教の目的とするものに到達できると思います 。


私の尊敬するある先生が、

 私見によれば“批判”とは“自説”を絶えず繰り返し疑い、
“自己”を絶えず全面的に否定し続けることでなければならないであろう。

 この絶えざる“自己否定”“自己批判”ということがあってこそ
初めて、
 さらにそのうえに、“正邪の決着”とか“正しい主張の定立”
 ということがありうるであろう。

と以前ある本で述べておられて、とても感銘を受けたことがあります。

 仏法の大海は、信をもって能入となす

と『大智度論』にあるように、
私たちは、阿弥陀様の本願やそれを説きしめしてくれた法然上人や親鸞聖人の言葉を、決して疑ってはいけませんが、

それはあくまで、阿弥陀様や法然上人や親鸞聖人に対してであって、自分自身が「これが親鸞聖人の教え」と受け取っている枠組みや、「これが親鸞聖人の教えである」という形で示されたものに関しては、本当にそれが正しいものであるかどうか、誰かが勝手に捏造して言っていることではないか、自分自身で絶えず確認していかなければならないと思います。

また、「親鸞聖人によって書かれたものである」とされている文献であっても、必ず、それが本物であるかどうか、親鸞聖人の言葉でないものが親鸞聖人の言葉として言われていないかどうか、一つ一つ、自分自身で見定めていかなければならないと思います。

それは面倒で遠回りの作業の気もしますが、実はとても大切だと思います。

それを怠ることによって、間違ったポイントに目的をおいて、間違った方向に突き進んでいってしまったら、取り返しのつかないことになります。

私が清森さんとご縁を頂いたことによって、それを少しでもお示しすることができたのであれば幸いです。

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