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親鸞会教義の相対化・14(質疑応答60)

 コメント欄の質問に対して、返答のメールを頂きましたので、紹介させて頂きます。

 親鸞聖人の教えられ方と違う部分もあるかも知れませんが、仏教という教えを、幅広い角度から理解してゆく上で、参考にしていただけたらと思います。


          *           *           *


清森義行様

清森問答のコメントに、私に対するご意見や質問が更にありましたので、お返事させていただきます。



>kkkさん

>>あのご文は、大集経そのものの言葉ではなく、
>>大集経の御意を道綽禅師が安楽集にあのように書かれている。
>>それを、親鸞聖人は、如来の金言と受け取っておられるとの記述がありますので、
>>親鸞学徒の私は、まさに大集経のお言葉そのものと、受け取っています。


私はkkkさんがそのように受け取っておられることに関しては、とても尊いことであると思いますし、そのことを否定するつもりは全くありません。
私自身も自らが生死出離するための教えは浄土門しか存在しないと確信しております。

しかし、道綽禅師の言葉が釈尊の言葉として教えられているということは、本来浄土門にしか適応されない「真理」を、他宗にも一切智者である釈尊の言葉として適応するということになると思います。

それは畢竟他宗を否定する根拠になると思いますが、以前簡単に述べたと思いますが、例えば題目で成仏できることは、『法華経』が間違いないことであると保証していることですので、それはやはり不当であると思います。

しかも親鸞会では『教学聖典』に書かれていることは、例えば「1+1=2」のように、あたかも普遍的な真理であるかのように、学んでおられるのではないかと思います。

この一つの現象だけを見たとしたら、細かい問題かもしれません。
しかし、こうした操作が少しずつ積み重なることによって、自己の持った枠組みしか認めることのできない、寛容性の欠如した宗教になってしまうのではないかと、大きなお世話かもしれませんが同じ浄土門の人間として危惧しております。




>山口さん

>>これは、「聖道門リタイヤ」したら、もはや六波羅蜜を実践しなくていい、
>>放棄していいという意味でしょうか。

これに関しては、「聖道門リタイヤ」後に、
1)往生するために最優先してやるべきことは何か?
2)阿弥陀仏に救ってもらうのにこれぐらいはしなさい!
という二つの立場を平行して考えていくべきなのではないかと思っています。


1)

六波羅蜜も「善」に違いありませんから、それ自体を否定する必要はないと思いますが、「聖道門リタイヤ」した人は、『選択集』第十六章に、

 速やかに生死を離れんと欲さば、
 二種の勝法の中には、しばらく聖道門を閣(さしお)きて、選んで浄土門に入れ。
 浄土門に入らんと欲さば、正雑二行の中には、
 しばらくもろもろの雑行を抛(なげう)ちて、選んで正行に帰すべし。
 正行を修せんと欲さば、正助二業の中には、
 なお助業を傍(かたわら)にして、選んで正定を専らにすべし。
 正定の業とは、すなわち仏名を称するなり。
 名を称すれば、必ず生ずることを得。仏の本願に依るが故に。

とあって、これは『教行真証』にも引用されているわけですから、「速やかに生死を離れんと欲」するならば、当然ながら「雜行(阿弥陀仏に親しくない行)」である六波羅蜜は「抛」って、優先的に「正行(阿弥陀仏に親しい行)」をすべきだと思います。

読誦正行は阿弥陀仏のことが專らに書かれている浄土三部経を読むことで、それに関する話を聞くことも同じで、念仏申すための環境作りだと思います。

観察正行は、誤解されやすいんですが、

 近来の行人観法をなす事なかれ。
 佛像を観ずとも雲慶康慶が造たる佛程だにも、観じあらはすべからず、
  極楽の荘厳を観ずとも、桜梅桃季の花菓程も、
 観じあらはさんことかたかるべし。
 ただ彼の佛、今現に世に在して成佛したまえり、
 当に知るべし本誓の重願虚しからざることを。
 衆生称念すれば必じ往生を得、の釈を信じて、
 ふかく本願をたのみて、一向に名号を唱べし。
(『勅伝』巻二十一「つねに仰せられける御詞」)

とあるように、法然上人が「観察なんてできるものではない!」 と仰っておられますから、定善十三観の「観察」ではありません。

 五種の正行中の観察門の事は、十三定善にはあらず。
 散心念仏の行者の、極楽の有様を相像(あいみ)て欣慕(ごんぼ)する心なり。
(『三心料簡および御法語』昭法全p.449 原漢文)

というように、極楽の有様を想像して、
欣慕(よろこびしたう)ことが、助業としての「観察正行」です。
だから仏檀の前に座って極楽浄土を欣慕して、念仏申す環境作りをすることです。

阿弥陀様を礼拝するのだって、念仏申す環境作りだと思います。
讃歎供養だって、仏檀を綺麗にして、綺麗なお花をいけて、お墓にも参って綺麗にお掃除をしたりしたら、全て念仏申す環境作りになると思います。

結局、全ての行を阿弥陀仏に向けていくのが大事であって、そうすることによって、阿弥陀仏の大きさ、ご苦労、その方を前にした時の、自分自身の小ささ、至らなさが鮮明になるんだと思います。

自分の生き方のベクトルを阿弥陀様に向ける。
こんなのは、極楽浄土に往生しようとしているのであれば当たり前だと思うんですが、六波羅蜜を中途半端な形で実践して、それに滿足してしまうと、どんどん阿弥陀仏に対する信心からは遠ざかってしまうと思います。


また『選択集』の四章では、念仏と諸行の関係について、法然上人は廃立・助正・傍正の三義で述べておられますが、

 ただしこれ等の三義、殿最知り難し。
 請う、諸の学者、取捨心に在るべし。

(和訳) 
 ただしこれらの三義の、優劣は知りがたいものである。
 どうか、これを学ぶ多くの人たちは、
 自分自身の判断で、取捨してください。

というように、廃立・助正・傍正の三義をそれぞれの判断にゆだねて、
それぞれが、自分にあった形で理解して、
ともかくもお念仏を申しやすいように理解して、
ともかく、お念仏を申すようにしようとしますが、

 今もし善導に依らば、初めを以って正と為すのみ。

(和訳)
 ただし、今もし善導大師の教えに依ってあえて言うならば、
 初めの廃立を正しい解釈とするのみである。

と後に述べておられていて、それが本音となっております。

ちなみに、この「廃立」は『選択集』の十六章を見ると、「選択」と同じように、釈尊の「選び取り」という意味で使われていますので、自ずから実践としての優先順位が決まってきます。


 本願の念仏には、ひとりだちをせさせて、すけをささぬなり。
 すけといふは、智惠をもすけにさし、
 持戒をもすけにさし、道心をもすけにさし、
 慈悲をもすけにさすなり。
(『勅伝』巻21)

という言葉がありますから、究極的にはお念仏に対して、何かでもって助けていく必要はないわけですが、それができない場合は、諸行を傍らにしても、助けにしても、ともかくお念仏を申していくべきということになるんだと思います。

それに法然上人は禅勝房が、

「死後、極楽往生することについては
 阿弥陀様の本願を信じてお念仏すれば、
 間違いなく往生できるとわかりましたが、
 この世に生きている間は
 どのように生きたらよろしいのでしょうか」

と尋ねたのに対して、

 現世をすぐべきやうは、念佛の申されんかたによりてすぐべし。
 念佛のさはりになりぬべからん事をばいとひすつべし。
 一所にて申されずば、修行して申べし。
 修行して申されずば、一所に住して申べし。
 ひじりて申されずば、在家になりし申べし。
 在家にて申されずば、遁世して申べし。
 ひとりこもり居て申されずば、同行と共行して申べし。
 共行して申されずば、一人こもり居て申べし。
 衣食かなはずして申されずば他人にたすけられて申べし。
 他人のたすけにて申されずば、自力にて申べし。
 妻子も従類も、自身たすけられて、念佛申さんためなり。
 念佛のさはりになるべくば、ゆめゆめもつべからず。
 所知所領も、念佛の助業ならば大切なり。
 妨にならばもつべからず。

 総じてこれをいはゞ、自身安穏にして、
 念佛往生をとげんがためには、
 なに事もみな念佛の助業なり。
 三途にかへるべきことをする身をだにも、
 すてがたければかへりみはぐくむぞかし。
 まして往生すべき念佛申さん身をば、
 いかにもはぐくみもてなすべし。
 
 念佛の助業ならずして、今生のために身を貧求するは、
 三悪道の業となる。
 往生極楽のために自身を貧求するのは、
 往生の助業となるなり。
『勅伝』巻四十五、「十二問答」(昭法全六四〇頁)


とお答えになっております。

だから六波羅蜜は否定はしないけど、それに頑張る時間があるのであれば、
一言でも多く念仏を申すべきだと思います。
そして、念仏申すことがなかなかできないのであれば、助業でもって、補っていって、とにかく念仏申していくべきだと思います。

明日をも知れない命ですので、仮にも浄土門の人間であれば、聖道門の修行は阿弥陀仏には親しくありませんから、
一日も早く終了して、阿弥陀仏に向かう行をしなければいけなくて、それには念仏を一つでも多く申すことが最優先だと思います。

私は、信心獲得の道程において、念仏申すこと以上に、優先しなければならないことはないと思っております。

浄土門の人間が教えを勧めるのは、聖道門をリタイアした人であって、その人に勧めるのは、阿弥陀仏の本願を信じて念仏申すことであって、それ以上に優先して進めることはないと思います。




2)

でも一方で、往生に関係するかどうかではなくて、「人間として、これぐらいはしなさい!」という最低限の倫理を、法然上人はお説きになっています。


 十重をたもちて、十念をとなへよ。
 四十八軽を守りて、四十八願を頼むは、心に深く、こひねがふ所なり。
 おおよそ、いづれの行を専らにすとも,心に戒行を保ちて、
 浮綯を守るが如くにして、身に威儀に、油鉢をかたぶけずば、
 行として成就せずと、いふ事なし。
 願として、円満せずと、いふこと無し。
 しかるを、われら、或いは四重を犯し、或は十悪を行ず。
 かれも犯し、これも行ず。一人として、まことの戒行を、具した
る者はなし。
 諸悪莫作、諸善奉行は、三世の諸佛の通戒なり。
 善を修する者は、善趣の報を得、悪を行ずる者は、悪道の果を感
ずといふ、
 此の因果の道理を聞けども、聞かざるが如し。
 はじめていふに、能わず。しかれども、分にしたがいて、悪業を
とどめよ。
 縁にふれて、念仏を行じ、往生を期すべし。
『勅伝』巻三十二、「登山状」(昭法全四二六頁)


極楽浄土に往生するために持戒は必要ではないけど、念仏者は自分のできる範囲で悪いことをやめて、また機会のある度にお念仏を称えて、極楽に往生するために勤めるべきであると説いておられます。

「往生には関係ないから悪いことしてもいい!」とはならないですよね。


 念仏して往生するに、不足無しといひて、
 悪業をも憚らず、行ずべき慈悲をも行ぜず、
 念仏をも励まさざらん事は、仏教の掟に相違するなり。

 例えば、父母の慈悲は、良き子をも悪しき子をも育むめども、
 よき子をば喜び、悪しき子をば嘆くが如し。

 仏は一切衆生を、哀れみて、良きをも悪しきをも渡し給えども、
 善人を見ては喜び、悪人を見ては悲しみ給えるなり。

 良き地に、良き種を、まかんが如し。
 かまえて、善人にして、しかも念仏を修すべし。
 是を真実に、仏教に従うものという也。
「念佛往生義」(昭法全六九一頁)


ここでは、念仏者は、悪を造ってしまう故に念仏するのであって、悪を造るために念仏するのではないことが、はっきりと説かれています。

ちなみに親鸞聖人が関東の弟子達に送った書簡にも、「造悪無碍」を批判するものが、結構ありますね。

●『親鸞聖人御消息』37、『末灯抄』16
・・「悪いことしてよい」ということは、「ゆめゆめあるべからず
候ふ」ですね。

●『親鸞聖人御消息』4、『末灯抄』19
・・反省もなくやりたい放題してたら、「順次の往生もかたくや候
ふべからん」 ですね。

●『親鸞聖人御消息』2、『末灯抄』20

・・これも、上記の法然上人の教えと同じように、「人間として、これぐらいはせいや!」という最低限の倫理なのではと思います。


なんていうか、親鸞会ではこの1)と2)の問題を整理しないまま使っている感じがします。



あとこれは余談ですが、紅楳先生って、親鸞会ではとんでもない悪者ですよね。
でも実は、極めて知的誠実さを持ったまともな学者で、論文をちゃんと読んだら「善をしてはいけない!」みたいない主張って一つもないんですよ。

親鸞会の、念仏を信心決定後の報恩感謝に限定し、それ以前の信前の段階では、念仏以上に、六波羅蜜(特に布施)とか聞法(高森先生に限る)を、重視して、それによって「宿善」を厚くして、信心獲得のための補助にするという考え方があることが、「親鸞聖人とは違う」と紅楳先生は主張しておられるんですよね。

実は、これに関しては私も全く賛成で、この論点は至極もっともだと思っています。
(一念覚知とか善知識帰命は、かなり強引な論だと思いますが。。)

そして問題なのは、 高森先生がこの紅楳先生の主張を、

「本願寺は、親鸞聖人が善をすることを主張していないと思っている。
 けしからん!善をするのがいいのに決まっているではないか!」

って感じにすりかえて、捏造した紅楳先生の主張を批判して、一方的に「本願寺に勝った!」と言ってることだと思います。

私は、こういうやり方は極めて不当だと思います。



最後に『選択集』の一節を紹介させて頂きます。
私は、法然上人が明かにしたものを受け継がれた一人が親鸞聖人と思っております。

法然上人の言葉に反する教えが、親鸞聖人の教えとして説かれている場合、それが本当に親鸞聖人の教えであるかどうか、もう一度考えてみることは、すごく大切なことでないかと思います。


 もし仏像を造ることや堂塔を建立することを、
 極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
 お金のない貧しい者は、きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
 しかし現実には、裕福な人は少なく、貧しい人は甚だ多い。

 もし智慧にすぐれ才能に溢れていることを、
 極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
 愚かで智慧のない人は、きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
 しかし現実には、智慧のある人は少なく、愚かな人は甚だ多い。

 もしお経に書かれた教えを、沢山見たり聞いたりすることを、
 極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
 少ししか見たり聞いたりしていない人は、
 きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
 しかし現実には、沢山聞いた人は少なく、
 少ししか聞いていない人は甚だ多い。

 もし戒や律をきちんと守ることを、
 極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
 戒を破ってしまったり、もともと戒のない人は、
 きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
 しかし現実には、戒を守れる人は少なく、戒を破ってしまう人は甚だ多い。

 この他の念仏以外の諸行に関しても、これに準じて知るべきである。
 以上のことから、これらの念仏以外の諸行をすることを、
 極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
 往生できる人は少なく、往生できない人は多いだろう。

 だからこそ、阿弥陀仏は過去において法蔵比丘であった時に、
 平等の慈悲にうながされて、あまねく全ての人々を救うために、
 仏像を造り堂塔を建立する等の念仏以外の諸行を、
 極楽浄土に往生するための本願にせずに、
 ただ、「南無阿弥陀仏」とお念仏申す一行だけを本願とされたのである。
(『選択集』第三章 私訳)


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