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質疑応答66

【質問】

信一念の時を、唯識では、どう説明しているのでしょうか?
因が無限小、強縁が無限大でも、自因自果ですから、阿弥陀仏の「善の種子」が、
私を生み出している阿頼耶識に、熏習されるという表現では他因自果になってしまい
ますので、この一念の時を、どう説かれているのか知りたいです。

【回答】

 阿弥陀仏に救われるというのは、善の種子を阿弥陀仏から頂くというのではありま
せん。阿弥陀仏に救われるというのは、阿弥陀仏の功徳を見る目、聞く耳を阿弥陀仏
から、頂くということです。
 その阿弥陀仏の功徳を感じ、それに対して、随喜したとき、随喜同業で、阿弥陀仏
の功徳を頂き、善業が阿頼耶識に薫習されるのです。

 ちなみに自因自果の自因とは、自分が具体的にやった行いのことではなく、あくま
でも自分の阿頼耶識に収まっている業のことを言います。自分がやったものでなくて
も、随喜すれば、随喜同業で、阿頼耶識の中に薫習されます。
 自分の力で善をしたのではなくても、阿弥陀仏のお力によって、させられたもので
も、それが阿頼耶識の中に薫習されたら、自業です。その阿頼耶識に収まった業によ
って、運命が生み出されてゆくので、自因自果と、弥陀の救いとは矛盾しません。


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