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親鸞会教義の相対化・17(質疑応答71)

清森 義行様

続きです。


【3】「一向專念無量寿仏でないと助からない」という表現について

親鸞会の本やビデオでよく語られる言葉です。
私も浄土門を生きる人間ですから、
信仰上このように受けっていくべきだと思っています。

しかしその信仰が、「一向專念無量寿仏でない人は助からない」
ということではないということを、きちんと理解していくべきだと
思います。


 念仏の他の一切の行は、これ彌陀の本願にあらざるがゆえに、
 たとひ目出(めで)たき行なりといへども、念仏には
及ばざるなり。

 大方、その国に生まれんと思はんものは、
 その仏の誓いに従うべきなり。
 されば弥陀の浄土に生まれんと思はんものは、
 彌陀の誓願に、従うべきなり。

『勅伝』巻二十五、
「太胡太郎実秀が妻室のもとへつかはす御返事」(昭法全五〇七頁)


(訳)
 お念仏以外の全ての行は、阿弥陀仏が本願で願われたものでないので、
 どんなに素晴らしい修行であっても、念仏には及ばないのである。

 大体の所、仏の国に生まれたいと思うものは、
 その国の仏の誓っておられることに従うべきなのである。
 だから、阿弥陀仏の浄土に生まれたいと思うの者は、
 阿弥陀仏の誓願に従うべきなのである。


釈尊がお示しくださった「八万四千の法門」は、
全ての教えが人々を覚りへと導く正しい教えであり、
その教えに基づく修行はどれもが素晴らしいものです。
釈尊が、私達のためにお説きくださった修行に、
我々人間が勝手に優越をつける資格はありません。

ですから、仏教を信ずるものは、
その修行を一つたりとも軽んじてはいけないはずです。

ましてや、聖道門の行に我が身が及ばなかったものが、
釈尊のお示しくださった教えを謗るなどできようはずがありません。
聖道門仏教の修行を、頑張って励んでいる人がいたならば、
その真摯な姿勢を尊敬し、随喜していくべきなのです。

浄土門は聖道門の教えに及ばない者のための教え、
お念仏は、聖道門の行からリタイヤした者のための行です。

しかし、その道を進をお決めくださったのは、
他ならぬ、我々を救い取ってくださる阿弥陀仏御自身です。

ただ心をこめて、ひたすらに阿弥陀仏の名号を称えるお念仏は、
数ある仏教の修行の中で唯一、
私達を救ってくださる阿弥陀仏ご自身が選び取って、
私達に願ってくださった行です。

だから、阿弥陀仏の極楽浄土に往生しようと願うものは、
極楽浄土をお造りになられた阿弥陀仏が、
我々に願ってくださった本願に従って、
阿弥陀仏の本願を信じて念仏申していくべきなのであって、
「一向專念無量寿仏」という言葉は、
そういうコンテキストで語られるべき言葉だと思っています。


法然上人に関して書かれた本の中で、

井上洋治著『法然―イエスの面影をしのばせる人』(筑摩書房)

が、私が最も好きな一冊なのですが、

井上先生の提唱する「諸宗教の共存・共生の原理」を、
親鸞会と関係のある方にも、ぜひ受け取っていただけたらと思いま
すので、
別の所で書いたものを、ここに掲載させていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本書の著者である井上先生は、
なんとキリスト教の司祭さんである。
しかもその道を極めようと
親友の遠藤周作先生と一緒にフランスに留学した方である。
そして従来の伝統的キリスト教に疑問を持たれ、
帰国後、日本人の感性で
キリスト教を捉え直していくことに努められた方である。

 1927年、神奈川県生まれ。
 東京大学文学部哲学科を卒業。
 1950年、遠藤周作さと共に留学のため渡仏。
 カルメル会修道院に入会、
 七年半にわたり勉学・修業後帰国。
 1960年、司祭となる。
 日本人の感性でキリスト教をとらえることを努めている。
 1986年以降、「風の家」を主宰。
 著書に『日本とイエスの顔』『余白の旅』『キリストを運んだ男』
 『福音書をよむ旅』など多数。
 (本書の著者紹介より)

その方がその思索の過程で、
法然上人の教えに出会われたのである。

 寺院への寄付ができなくとも、
 高度の勉学知識がなくとも、
 戒律を守りぬく強い意志が持てなくても、
 ただ南無阿弥陀仏を唱えさえすれば、
 それによって必ず救われるのだという
 法然の限りなくやさしい姿。
 この法然の姿のうちに、
 私は、古代ユダヤ教社会で差別され、救いの望みを絶たれ、
 哀しく重い人生をとぼとぼと歩んでいた庶民を、
 なかでもとりわけ差別の目でみられていた
 娼婦やハンセン病の人たちを迎えいれ、
 楽しく一緒に食事をしていた
 イエスの面影を垣間みる思いがしたのである。
 (あとがきより)

その後、イエスの面影をしのばせる
法然上人について書いてみたいという思いを長年持ち続け、
そしてついに書かれのが本書である。

本書では、法然上人の生涯や思想が
簡潔かつわかりやすくまとめられている。
しかも長年キリスト教を研究されてきた井上先生らしく、
文献学的にきっちりと資料に語らせる形で論述されているので
すごく論理的で説得力がある。
さらに、法然上人のエピソードと
対応するイエスのエピソードを述べている部分も興味深いものであり、
行間から井上先生の熱い思いが伝わってくるようである。



このように本書は文句のつけようの本であるが、
その中でも特筆すべきことは、
浄土宗の学者さんでも
「延暦寺の僧徒による念仏停止運動によって、
法然上人がやむをえず書かされた」
とする場合がある
「七箇条起請文」(=「七箇条制誡」)を、
現代の宗教者たちが、宗教の別を問わず謙虚に耳を傾けるべき
「諸宗教の共存・共生の原理」
として位置付けていることである。

井上先生は、「七箇条起請文」のうち初めの三条に注目する。


 一、いまだ一句として、真言宗や天台宗の師について、
 その教えを学び修することもせずに、
 その教えは誤っているとしてうち破り、
 阿弥陀仏以外の仏や菩薩をそしるのはやめるべき事。

  このことについていえば、
 自らの立場を主張し批判するのは、
 長年にわたり学問にたずさわってきた人のなすことで、
 愚かな人の考えでなすべきことではない。
 そればかりか、
 『無量寿経』の第十八念仏往生願にも
 「仏の教法をそしるような悪罪を犯した者は
 この限りではない」と記し、
 往生の対象から除かれている。
 そしった人は、その報いとして、
 地獄におちてしまうであろう。
 どうして、それを承知で愚かなことをするのであろうか。
 そのようなことをしてはならない。

 一、知識のない人が、知識を十分具えている人に対し、
 しかも念仏以外のつとめをしている人に会い、
 その優劣について争い論ずるようなことはやめるべき事。

  このことについていえば、
 仏教の内容について議論することは、
 知識を十分に具えている人のすることで、
 愚かな者のすべきことではない。
 他人の過失についてとやかく論ずるにあたっては、
 悪い心がはたらくものであるから、
 知識を十分具えている人は、
 できるだけ遠ざけたいと考えている。
 ましてや、ひたすら念仏のみを修している愚かな人は、
 そのようなことをすべきではない。

 一、見解を別にして、行法を異にしている聖道門の人に対し、
 物事をわきまえず、かたよった考えをもち、
 聖道門のような教えはやめてしまえなどと、
 むやみやたらに嫌ったり、あざけり笑うようなことはやめるべき事。

  このことについていえば、
 仏道を修するにあたっては、
 自分の修行のための行いのみを、それぞれつとめ、
 しいて他の人たちのつとめている修業について、
 異義を申したてるようなことがあってはならない。
 窺基は『西方要決釈義通規』に
 「見解を異にし、行法を異にしている者には、
 できる限り敬う心をおこすようにせよ。
 もし、あなどるようなことがあれば、
 それによって得た罪は長く消えることはないであろう」
 と、申されている。
 どうして、この戒めに背くことができようか、できはしない。
 そればかりか、
 善導和尚もそのようなことがあってはならない、
 と戒めている。
 祖師たちの戒めていることをないがしろにするようなことは、
 愚かで、ものの道理にくらい人といわざるを得ない。
 (「七箇条起請文」昭法全p.787)


法然上人はこの三箇条で、
自分の弟子を名のって專修念仏を人々に勧めている全ての者に、
天台・真言などの聖道門の人たちを非難したり、
やたらに議論をふっかけたりすることがないように厳しく戒めている。

しかし一方で法然上人は

 阿弥陀様の光明はただ念仏する行者だけを照らし救うので、
 その他の教えをつとめる者を照らすことはない
 (『選択集』第七章)

とまで言いきっている。

この一見矛盾する二つの言葉から、
「七箇条制誡」を法然上人の真意でない
とする見解が出てくるわけである。

これに対して井上先生は
法然上人が『選択集』において引用する、
善導大師の『観経疏』の回向発願心の部分における、

念仏の行者が見解や修業を異にする人たちから

 おまえたちは戒を破ったり、
 正しい教えをそこなったりして多くの罪を犯しているのだから、
 ただひたすら念仏したぐらいで救われるはずはない。

と言われたときどう答えたらよいのか。

という質問に対する答えから、
この二つの言葉を矛盾なく解釈し、

さらには、

「信仰や修業を異にする宗教の共存・共生の原理」

を導き出すのである。


  多くの仏の教えと修業の方法は、
 塵や砂の数ほどに多く、
 それを受ける人たちの素質も能力もさまざまで、
 それぞれの心にふさわしい教えも、また多い。
 たとえば、光が闇を照らし、大空が何ものをも受け入れ、
 大地が草木を育て、水がうるおって生長をうながし、
 火がものをつくったり焼いて破壞したりすることは、
 誰もが自分の目で見て確め信じることができる。
 これは光と闇、空と有、水と火というように
 相対的にはたらく不思議な作用をもっているので
 待対の法と名付けなれているが、
 いずれも目で見て確かめることのできるもので、
 その現象はさまざまである。

  ましてや、仏法の考えもおよばない力に
 どうしてさまざまな利益がないのだろうか。
 そのようなはずはあるまい。
 仏の教えは八万四千もあるといわれ、
 煩悩も限りなくある。
 したがって教えの一つの門を出れば
 迷いの一つの門を出ることになり、
 教えの一つの門を入れば
 迷いや苦しみを離れた智恵の門に入ることになる。
 いずれにせよ、縁のあるままにつとめ、
 自分に最も適した教えによって、悟りを求めるようにせよ。
 それにもかかわらず、そなたたちは、
 たとえそれが重要な修業の一つであっても、
 縁遠いものをもってきて修業をすすめ、
 我われをまどわしさまたげようとするのか。
 今、我われが願い求めているのは、
 我われに最もふさわしい修業法であり、
 そなたたちが求めようとしているものではない。
 そなたが願い求めているのは、
 そなたにとって最もふさわしいものであろうが、
 我々が求めているものではない。
 誰もが、それぞれ願うところにしたがい、
 最も自分にふさわしい修業をすれば、
 必ず早く迷いの世界を出て、
 悟りを得ることができる。
 仏の道を歩もうとする修業者は、
 このことをよく知ってほしい。
 もし、教えを学ぼうとするならば、
 凡夫の立場から聖者の境地に至り、
 さらに悟りを得て仏になるまで、
 自由自在に誰にもさまたげられることなく学ぶように。
 また修業したいと思うなら、
 あれもこれもと試みることなく、
 最もふさわしいものを一つ選んで修業せよ。
 こうした方法をとれば、
 多少の苦労はあっても、
 大きな利益を得ることができよう。
 (『選択集』八章、『観経疏』散善義)


この『選択集』の答えを引用した後、
井上先生は以下のように述べられる。


 この法然の答弁においてまず大切なことは、
 宗教とは考える次元の事柄ではなくて、
 行じられるべきものだ
 ということである。
 だからまず法然は
 「修業したいと思うなら、
 あれもこれもと試みることなく
 最もふさわしいものを一つ選んで修業せよ」
 といっているのである。
 現在でいえば、キリスト道ならキリスト道を、
 仏道なら仏道を、神道なら神道を、
 まず自分に最もふさわしいと思う道を
 行じることが大切だというわけなのである。
 人は二つの道を同時に考えることはできる。
 しかし二つの道を同時に行ずることはできない。
 従っていま自分の歩んでいる道が
 目的地に到達するのだという絶対の確信は、
 しかし、他の道も同じ目的地に達するのかどうかについては
 語る資格を持たない。
 宗教はみな同じ目的地に達するのだ
 といういわゆる諸宗教を横ならべに置く
 「宗教多元主義」も、
 達しないのだという独善論も、
 共に人間の条件、
 即ち今述べたように
 二つの道を同時に行ずることはできないのだ
 という人間の条件を無視した論といわざるをえない。
 だからこそ法然は、
 専修念仏による弥陀の救いの絶対性を確信しながらも、
 『選択本願念仏集』において『観念法門』の言葉を引用し

  阿弥陀仏の御身から輝く光は
  十方にある世界をあまねく照らすが、
  もしひたすら阿弥陀仏を念ずる人がいれば、
  仏のみ光はつねにこの人ばかり照らし
  おさめ見捨てることはない。
  その他のさまざまなつとめをする人まで
  照らしおさめるか否かは論じていない

 と述べているのである。

  すべての誤りは、
 この行の次元と思考の次元を混同することから生じる。
 人類の歴史をふり返ってみたとき、
 いかに多くの悲惨な宗教戦争がくりひろげられてきたかに
 何人も思わず驚きと嘆きの思いを禁じえないであろう。

  いま自分が歩んでいるこの道は
 絶対に目的地に到達するのだというのは、
 行の次元における主体的真理であって、
 思考の次元における抽象的、普遍的真理とはちがう。
 二たす二が四であるのが真理であれば、
 二たす二は五であるというのは誤りであり
 三であるというのもまた誤りであるという、
 真理と誤謬の二分法の論理は、
 あくまでも思考の次元のものであって、
 行(生きる)の次元に摘用されるべきものではない。
 これを行の次元にまであてはめれば
 キリスト教が真理であれば、
 仏教もイスラム教もヒンズー教もみんな誤謬であり、
 誤謬はつぶすか矯正されなければならないという、
 とんでもなく誤った結論になってしまうことはさけられない。
 それはまたどの宗教においても同じ過ちにおちいるわけであって、
 イスラム教が真理であれば
 他の宗教はみな悪魔にそそのかされた偽りの宗教だ
 ということにもなるわけである。
 この誤りによって
 実に多くの宗教戦争がひきおこされてきたのであって、
 法然は実に八百年もの昔
 この誤りによる危険を熟知していたわけである。

 だからこそ法然は「七箇条制誡」の第三において
 窺基の『西方要決釈義通規』を引用して

  見解を異にし、行法を異にしている者には、
  できる限り敬う心をおこすようにせよ」

 とさとしているわけなのである。
 この法然の心を現代の宗教者は
 また深く心にきざむべきであって、
 キリスト道を歩む者は仏道を歩んでいる者に対し、
 敬い尊重する心を持つべきであり、
 仏道を歩む者もまたキリスト道を歩む者に対し
 同じ心情を持つべきなのである。
 ここにこそ、まさにこれからの時代に必要な
 諸宗教の共存・共生の原理が述べられているといえよう。」
 (pp.107-110)


これはすごい大切なことだと思う、
法然上人の素晴らしさ、
そしてキリスト者でありながら
法然上人の御心をしっかりと受け取られた
井上先生の素晴らしさに、
僕は目頭が熱くなった。
おそらくキリスト者として
深い精神的なものに触れてきた井上先生であればこそ、
宗教は違うものの、
これほど法然上人の御心をよく理解できたのだと思う。


以前、他宗教の聖地を土足で踏みにじった
恥ずべき人の話を紹介したことがあるが、
彼にもこの言葉をぜひ聞いていただきたいと思う。

そして井上先生の素晴らしいところは、
自らはあくまでひたすらに
キリスト道を歩んでおられることである。


  ただ誤解のないように付け加えさせて頂ければ、
 私は決してイエスと法然が同じことを言っているとか、
 宗教はどの道からでもみな同じところに到達するのだ
 とか言っているのではない。
 キリスト道にしろ、仏道にしろ、
 その道を歩むということは生きるということであって、
 思索するということではない。
 人は二つの道を同時に考えることはできても、
 決して生きることはできないのである。

  道を求めて生きることを登山にたとえてみるなら、
 従来の西欧一神教がしばしば落ち入りかけた

 「自分の歩んでいる道だけが
 目的地である山頂に到達できるのであって、
 他の道は山頂には到達できない誤った道である」

 という「独善的排他論」
 ―これが悲惨な宗教戦争をひきおこしてきたわけであるが―
 が誤りであることは明かである。
 そのような断言は、
 山を一望に見渡せる
 ヘリコプターか何かからみて
 はじめて言えることであって
 ―これは人間の生の条件を超えている―
 人は、自分が今登っている道は必ず山頂に到達するのだ
 という信仰をもって登っていく以外にはないのであり、
 他の道が山頂に到達するかしないかは
 わかるはずはないのである。
 従っていまのべた「独善的排他論」が
 誤りであることは明らかであるが、
 しかし、同時に最近よく言われる、
 「全ての道はみな同じ山頂へと到達するのだ」
 と断言する「宗教多元論」もまた、
 同じ誤りをおかしているわけである。

  二十一世紀に必要なことは、
 諸宗教、諸文化、また人間と自然などの共生・共存であるといわ
れるが、
 しかし共生・共存ということは、
 決して違いをなくして
 一様化(ユニファーミティ)することではなく、
 違いを認め合ったうえで互いに相手を尊重し合う
 有機体的一致(ユニティ)でなければならないはずである。

  私は毎日南無アッパをとなえているキリスト者であって、
 南無阿弥陀仏をとなえている念仏行者ではない。
 その意味では、私には法然を正面から論じる
 資格はないかもしれないが、
 しかしただ一筋にキリスト道を生きぬいてきた者として、
 仏道に生命を賭けて歩んだ法然の後ろ姿に憧れ、
 魅せられているわけなのである。
 そしてその法然の後ろ姿は、
 まさに私にとって、
 師イエスの後ろ姿をしのばせるものでもあったのである。
(pp.183-184.)


宗教とか宗派に関係なく、
宗教に関心のある方にはぜひとも読んでほしい本だと思う。

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