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親鸞会教義の相対化・18(質疑応答72)

清森 義行様

続きです。


【4】追善について

 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだそうらわず。
 『歎異抄』 第五条

>>己のやる善根を亡者(死者)にさしむけて、亡者を助けようとするのを「自力廻向」と言いますが、
その自力廻向を破られたお言葉です
(親鸞会HPの解説)

この解説は、間違ってはいないと思います。

しかし、法然上人には以下のような言葉があります。


 当時日ごとのお念仏をも、かつかつ回向しまいらせられそうろうべし。
 亡き人のために念仏を回向しそうらえば、
 阿弥陀仏、光をはなちて、地獄・餓鬼・畜生を照らしたまいそうらえば、
 この三悪道に沈みて苦を受くるもの、その苦しみ休まりて、
 命終わりてのち解脱すべきにてそうろう。
『大経(無量寿経)』にいわく「もし三途勤苦の処在りて、
 この光明を見たてまつれば、皆休息を得てまた苦悩なし。
 寿終の後、皆解脱を蒙る。」
(『往生浄土用心』浄土宗聖典巻4、p.552)


このように、亡き人のために念仏をとなえて回向せよと、まったく逆のことを仰っておられます。
亡き人のために念仏を申せば、阿弥陀仏がその光明によってどんな所にいても救うというのです。

これに関しては、法然上人と親鸞聖人の信仰が異なるということではなくて、その根底に共通するものを探し出していくべきだと思います。

『歎異抄』が批判するのは、その阿弥陀仏の救いに対して疑いを持って、自分の念仏の力で人を救おうという自力作善の心であって、亡き人を大切に思う気持ちや、その方たちの幸せを願う気持ちを批判してものではありません。

阿弥陀仏の放つ光が地獄・餓鬼・畜生という三つの悪道に落ちた人々をも救うというのは、『無量寿経』という仏説に基づいたものであって、法然上人が勝手に仰ったものではありません。

阿弥陀仏に救済をおまかせする心は、紛れもなく他力の心であり、そういう意味で、法然上人は亡き人に念仏を回向できると仰っておられます。

阿弥陀仏によって、究極の利他活動が行われているのを信じつつ、自分はそれをありがたく受け取って、それを仏縁にしながら、阿弥陀仏の本願を信じ念仏申す機会にしていくという意味での「追善」であるならば、私は否定すべきものではないと思うし、大切な仏縁にしていくべきでないかと思っています。


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