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質疑応答6

【質問】

 救われても本当に救われたのだろうか、という心はおきるとハッキリ仰った親鸞聖人のお言葉を示してください。
「さるべき業縁の催せば、如何なる振る舞いもすべし」のお言葉は、ハッキリとは仰っておられないのでだめですよ。

【回答】

 これは、意味をなさない質問だと思います。なぜなら、「如何なる振る舞い」に、入らない三業はないからです。高森先生が、教学講義で「如何なる振舞の中に、身口意の三業で入らないものは、一つもない」と仰ったとおりです。

 例えば、高森先生は、「信心決定した人が、自殺することもある」と教えておられますが、親鸞聖人が「救われても自殺する」と教えられた根拠はありますでしょうか?
 あるいは、「救われてもスーパーで万引きすることもある」と教えられた根拠はありますか?

 このような質問は、高森先生に対してなされてきました。例えば「信心決定が人生の目的だと、親鸞聖人は、どこに仰っているか?」
 親鸞聖人の御心を拝察すれば、当然のことですが、このようにハッキリ書かれているお言葉は存在しません。邪教の者が、高森先生を非難する方法は、真似しない方が良いと思います。


> もし示すことができないとするならば、仮に信後に「本当に救われたのだろうか」
> という心はおきるとしても、親鸞聖人が何か深い御心があってか書き残されなかった
> ことを上田さんは言っているということになりますね。
> これでは親鸞学徒とは言えません。

 先ほども書きましたように、これは疑情が信後も起きる、と誤解される可能性がある
ので、触れるのは危険な内容です。上田君の説法は、

>>「本当に、救われたのだろうか?」という疑いが起きても、「こんなハッキリした救いなのに、疑いの心が起きるとは、浅ましいものだ」といよいよ往生は一定とハッキリするのです。

と教えられているので、誤解のしようがありません。だから、決して不適当な内容ではないと思います。

 親鸞聖人も、他力信心を明らかにするために、微妙な内容に言及されているところもあります。例えば歎異抄9章では、喜びの心も、浄土に行きたいという心も無い、と仰っています。これだけ読むと、他力信心と異なるわけですが、「いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定」となるところが違うわけです。


 なお、高森先生も、親鸞聖人の御教えを明らかにされるために、あえて親鸞聖人と違う教え方をされているところは、少なくありません。

 一例を挙げれば、二河白道の譬は、善導大師や親鸞聖人の作られた譬えと、かなり違う内容になっていますが、他力信心を、現代の私たちに、より分かるように変えられたもの、と拝察いたします。

 また、「人生の目的」と「生き甲斐」という御説法などは、親鸞聖人がされなかった教え方です。しかし、あくまで、大事なのは、阿弥陀仏の本願という真理をお伝えすることであって、伝え方はその手段です。対機説法ですから、時代や相手によって、教え方が変わるのは、当然のことなのです。


> どうすれば弥陀の本願に救われるのかということについて
> お釈迦様は聞其名号と弥陀の御心を明らかにされています。
>
> それを親鸞聖人は
> 「聞と言うは、衆生、仏願の生起本末を聞きて、疑心有ること無し。これを聞と曰うなり」
> と解説しておられます。また蓮如上人は
>
> 「されば『経』には「聞其名号 信心歓喜」ととけり。「その名号をきく」といえるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を、無名無實にきくにあらず。善知識にあいて、そのおしえをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまうという道理なり。これを『経』に「信心歓喜」ととかれたり。(御文章一帖目十五通)
>
> と教えておられます。「善知識にあいてそのおしえをうけて~」とありますから
> 弥陀の御心は聴聞する者を救うということになりますね。
> だから仏法は聴聞に極まる(聴聞一つで救われる)と言われます。

 阿弥陀仏は、「聞」の一つで救うと教えられています。これは本願成就文の通りです。
「聴聞する者を救う」など、高森先生が、かつて一度も仰ったことのない言葉です。
「すべての人を救う」が弥陀の本願です。
 そうでなければ、高森先生が、論説で「植物人間でも救われる」と教えられた御心とも合わなくなってしまいます。

 善知識のおしえを受けて…、という内容は矛盾すると思うかも知れませんが、これについては、公開法論(http://houron.exblog.jp/)で齊尾君が、解説してくれているので、それを読んで下さい。


> 聴とは善知識の教えを聞く(お聖教を拝読することを含めて)こと。
> 善知識の教えは捨自帰他です。それ以外の教えを説くものは悪知識です。
> 聞とは弥陀の呼び声を聞くこと。

「捨自帰他」とは、「聴」では救われませんよ、「聞」で救われるのですよ、という意味です。「聴」しなければ救われない、という教えを説く者は、悪知識です。

> 上田さんは捨自帰他の教えを聴聞しましたか?
>              ^^
 捨自帰他の教えを「聞」したということです。


> 仮に聴聞していたとしても、まるで教学がなくとも救われるなどというのは
> 親鸞聖人が私たちのために教行信証を書き残して下された
> 御心を踏みにじることにはなりませんか?

 高森先生は、歎異抄12章の教学講義で、「教学をしない人は助からない」というのは「間違いである」とハッキリ仰いました。
「自力で助かることになるから、阿弥陀仏の本願に反する」との御教導でした。

 高森先生も、親鸞聖人の御心を踏みにじっておられるのでしょうか?

 高森先生が「聴」と「聞」の関係について教えて下さった文章を添付いたします。
 参考にして下さい。

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こんなことが知りたい(2)40


 庄松同行が「合点ゆかずば合点ゆくまできゝなされ、きけば合点のゆく教え、合点したのは信ではないぞ、それは知ったの覚えたの」と言っていますが、このようなきき方を聴といゝます。
 このようなきゝ方はいくらでもできますが、このようなきゝ方をいくら重ねていても阿弥陀仏の救いにはあわれません。
「聴聞ということをば何と心得られて候やらん。たゞ耳にきゝたるばかりは聴聞にてはなく候。その故は千万のことを耳にきゝ候とも、信を獲候わずば、きかぬにてあるべく候。信を獲候わずは報土往生かなうまじく候」と、蓮如上人仰せになっているのはこのことなのです。
 耳にいくら千回万回の法話をきいても、それでは聴のきゝ方ですから、助からないのです。
 では、聞というのはどんなきゝ方かと申しますと、心のドン底へ阿弥陀仏のジカの呼び声が響き亘るきゝ方をいゝます。
 聴は上辺の心が善知識の御教化をきいて、合点して有難がっているきゝ方ですが、聞は下の心のドン
底に、阿弥陀仏の呼び声が、きこえた時のきゝ方をいうのです。
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