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親鸞会教義の相対化・24

私の投稿に、私宛のコメントをされた方がいるので、その方にお答えしておきたいと思います。



>>質疑応答70
>>iitikoさん

『四十八巻伝』の記述では、「歴史的事実」を云々できないとのことですが、『四十八巻伝』以外の伝記資料にも、西阿が法然上人に破門されたという記述はありませんでした。

常識的に考えて、AさんがBさんを泥棒の罪で訴えた場合、Aさんに「Bさんが泥棒をした」ことを証明する義務があります。
立証責任を果たさないままAさんが、「Bさんが泥棒をした」と主張するならば、Aさんは、「虚偽・捏造を行った人物である」と言われても反論できません。

同様に、「西阿が法然上人に破門された」ことを裏付ける資料がないにも関わらず、ある人物や団体が、「西阿が法然上人に破門された」と主張した場合は、その人物や団体は、「虚偽・捏造を行った」と言われても反論できませんね。


それから、

>一念義の幸西が破門されたのは「歴史的事実」ですね。

とのことですが、

「幸西が破門された」という記述がある資料は、貴方様が資料的価値を低く扱っている『四十八巻伝』の巻29と、『四十八巻伝』より成立が遅く、むしろ『四十八巻伝』を省略して作製された可能性のある、『九巻伝』(『法然上人伝全集』pp.429-430)にしか存在せず、それらはいずれも、一念義を邪義とみなす鎮西派系統の資料であり、

より中立性・客観性を持った資料である、愚勧住信の『私聚百因縁集』、凝然の『浄土法門源流章』、『法水分流記』等では、いずれも幸西が破門になったということを伝えていないことは、ちょっと調べればわかることですから、おぼえておいた方がいいでしょう。

ちなみに、同じ「一念義」の行空の場合は、「十戒毀犯の業を勧め、恣に余仏の願を謗り、念仏の行を違失す」という理由を持って、罪科に問われ更に破門されたことが、『三長記』のような資料に出ているので、間違いなく法然上人に破門されていますが、

行空の場合は、

「念仏門には戒行がなく造悪を恐れない」などと主張することを戒め、

「制法に背く輩は、これ予が門人にあらず。魔の眷属なり。更に草庵に来るべからず。」

とまで法然上人が仰った『七箇条起請文』に違反したわけですから、破門されても仕方ないと思います。

法然上人は、師匠の身を気遣って進言した人物を、無慈悲に切り捨てる人物ではありません。



>>質疑応答71
>>iitikoさん

この際、はっきりお断りしておきますが、私の姿勢は、自分の「信仰」と違う「信仰」に対する寛容であって、自分にとって最も相応しいと思った「信仰」があった時に、それを示してくださった祖師の言葉が残されているのであれば、できるだけ正確にそれを理解していこうとしなければならないと思っています。

したがって、残された一つの言葉に対する解釈が二つ以上あったならは、より正確な解釈、より祖師の真意に近い解釈を、あらゆる手段を使って求めていこうとするのが、信仰に携わる者として、あるべき姿だと思っています。

私の主張は、そのような信念に基づき、知的誠実さを尽くし結論に達した、善導大師や法然上人の教義に基づく主張ですので、あたかも私が文化相対主義であるかのようにレッテルを貼って、私に対する人格攻撃をする行為は、善導大師や法然上人に対する人格攻撃であると認識してください。


ちなみに、iitikoさんは私の「信仰」に関係しない人物ですので、「iitikoさん独自の思想哲学」であれば、私は貴方がそれを信仰されるのを尊重しつつ、自分の「信仰」に関係のないものとして扱います。

ただし、「iitikoさん独自の思想哲学」を、「釈尊の教え」「法然上人の教え」「親鸞聖人の教え」として主張されるのであれば、私の批判対象となりますので、ご注意ください。



>>投稿2
>>kkhateさん

このコメントは、何かの印象操作でしょうか?

私は、「一切衆生必墮無間」という言葉や概念が、通仏教や法然上人や親鸞聖人の教えにないことを述べただけで、凡夫(プリタッグ・ジャナ、異生)が「輪廻する存在」であることは否定しないし、輪廻から脱することを仏教が目指していることも否定していません。

貴方が「一切衆生必墮無間」と思うのは全く自由ですが、それは貴方独自の思想哲学であり、それは親鸞聖人から教えていただいたものではなく、「これが釈尊の教えであり、法然上人の教えであり、親鸞聖人の教えである」と捏造して教えた方独自の思想哲学です。


先日、清森さんの依頼で『無量寿経』本願成就文のサンスクリット文を紹介させて頂きましたが、

現世で不退転に達する(=信心決定する)ためには、阿弥陀仏の名号を聞いた後、最低一度、浄らかな信を伴った(prasAdasahagata)心(citta)を起こす必要があります。

「浄らかな信」(prasAda、プラサーダ)は、「しずめる」「浄化する」「喜悦する」「滿足する」という意味をあらわす動詞、pra-√sadから作られた名詞であり、
「心が澄みきって清らかとなり、静かな喜びや滿足の感じられる心境」のことであって、

「誰かに教えられたことを無条件に信じ込む」ような、「思考停止」とは全く異なります。


kkhateさんのコメントを読ませて頂くと、「浄らかな信」と「思考停止」の区別がついていないのではないかと思います。




以上、私宛のコメントをしてくださっている方にお答えさせて頂きました。

私は浅学非才の若輩者ですが、これでも知的誠実さを尽くして資料に基づいた発言をしており、自分の発言には責任を持っていますし、根拠のない発言は一つもしておりません。

したがって、私の投稿に反論するのであれば、脊髄反射レベルの反論やくだらない人格攻撃ではなく、資料に基づいて論拠を挙げた反論をしていただきたいと思います。

そして、その反論が筋の通った私の主張を覆すものであれば、素直にその意見を聞いて私の認識を改めさせて頂きますし、不十分な反論であれば、更に反証させていただこうと思います。


私は、何冊かの本やビデオを見たことがあるだけで、高森先生にお会いしたことがあるわけでもありませんし、実際に親鸞会がどのような活動をしているかは全く存じあげておりません。

ただ、私が心から尊敬する方が親鸞会に属しておられ、その方や清森さんを育てたのが高森先生であり親鸞会ですから、高森先生や親鸞会に、他にはない優れた部分があることは認めております。


ただし、

自分で地中に埋めた土器を、あたかも自分が発見したかのように装った某アマチュア考古学者のように、自分逹の教義に都合のよいエピソードを、資料に基づくことなく捏造する行為や、

それを指摘された場合に、素直に誤りを認め反省し訂正することもなく、論点スライドしたり、見苦しいいい訳をしたり、人格攻撃をする行為は、

知的誠実さのかけらもなく人文科学の根底を揺るがすような、卑劣極まりない行為であり、

このような行為を更に繰り返すならば、人物や団体としての良識を疑われ、信用を失墜し、言語空間から抹殺されてしまうことになると思います。

そして、そのような行為を行う人物や団体のために、法然上人の流れを受け継ぐ浄土門の教えが、世間から見放されてしまうような事態になることは、絶対に回避しなければならないと思っております。


私は、法然上人の教えこそ最も優れた教えであると確信しており、その教えを一人でも多くの方に伝えることが、自分に課せられた使命であると思っております。

しかし同時に、法然上人を心から尊敬し、自らに厳しく安易に妥協することなく、法然上人に問い続け、念仏の実践を詰まれ、他力の信心を獲得され、その境地を言葉に書き記し、人々をその境地まで導く道筋を明らかにされた親鸞聖人もまた、本当に素晴らしい方であると心から尊敬しております。

そして、その親鸞聖人の教えを一人でも多くの伝えようと、懸命に努力する人がいるならば、協力は惜しまないつもりです。

不思議なご縁を頂いて、清森さんという心から尊敬できる方と知り合うことができましたので、清森さんの要請を受けて、私が学んだ、仏教学・法然教学の視点から、親鸞会の教義を相対化させて頂いております。

親鸞会教義の相対化は、親鸞会内部にいては、見えない部分に光りを当てる作業ですから、親鸞会にどっぷり漬かった方には、反発したくなる部分も多々あるかと存じますが、いったん自分の枠組みを横に置いて、検討を頂きたいと思います。

そして、私が親鸞会教義を相対化することが、法然上人が伝えたかったものが、より正確に伝わることの一助になれば、これ以上の喜びはないと思っております。


南無阿弥陀仏

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