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親鸞会教義の相対化・25

清森義行様


以下は、先日アニメの感想をくれた友人がお書きになった文章です。

親鸞会教義を相対化する上で、非常に多くの示唆を与えてくれますので、本人に許可を得た上で紹介させて頂きます。

・・・・・以下引用・・・・・


「熱狂について」

かつて、あるネット上の浄土教に関する掲示板で、「熱狂」について議論になったことがある。

ある人が、「熱狂」それ自体は問題ではなく、何に熱狂するかが大事だ、と主張していた。

それに対して、私は、「熱狂」とは、「熱意」+「狂気」であること、熱意は大事かもしれないが、狂気はいかなる場合もろくな結果は招かないこと、常に、熱狂の中に潜む狂気の危険性への批判を忘れたらいけないのではないかということを、主張した。


結局、平行線に議論は終わった。

その人は、ある信仰に本当に熱心ならば、熱狂するのが当然であるし、それに敵対する存在には憎悪が湧くのが自然であって、たとえ法然上人がなんと言おうと、そういう憎悪はとめられない、それは理屈ではない、と主張していた。

その人は、浄土門の流れを汲む宗派の方だった。

私は、この人はとても浄土門の人間だとは思えないと思った。


少なくとも法然上人の流れをきちんと汲む正当な浄土門の人とは呼べないと思った。

もちろん、個人的に見た場合は、その方は真摯な、良い人なのかもしれないけれど、少なくとも、法然上人の精神をきちんと汲んだ人とは思えなかった。

法然上人は、七箇条起請文で、他宗への憎悪や誹謗を厳格に戒めている。

そうした法然上人の、熱狂や不寛容への拒否を、きちんと受け継いでいないとすれば、それはもはや正当な浄土門ではないと思った。


ただ、そういう方は、いつの世も、多いのかもしれない。

まじめな人や、宗教に熱心な人ほど、そうなってしまいがちなのかもしれない。


宗教における熱意は、容易に熱狂に変化し、堕落してしまう。

洋の東西を問わず、その例の枚挙にはいとまがない。


そうした中で、一貫して熱狂を拒否し、清澄な信心を保ち続けた法然上人は、歴史上稀な人物だったと思う。

「熱意」を持ちながら「狂気」とは無縁で、終始一貫、澄みきった信心と寛容を持ち続けたその生涯は、宗教の歴史を振り返ると、優曇華の花か蔡花のように稀な気がする。


もちろん、法然上人以外にも、歴史を見れば、それぞれの形で寛容を説いた人物はさまざまにいたと思う。

エラスムス、ラブレー、モンテーニュ、ロック、ヒュームなどは、西洋における良い事例だろう。

日本でも、弘法大師は、法然上人とはまた違った切り口で、ある種の宗教的な寛容の到達点を示した人物だったと思う。


だが、信仰への熱意と寛容の両方を併せ持つことは、やはり非常に至難だと思う。
寛容に力点を置くと、しばしば信仰への熱意も失われてしまう。

たとえば、エラスムスやロックは、キリスト教への熱心な信仰と寛容の同居した稀な事例だけれど、モンテーニュやヒュームは事実上、宗教はどうでもいい領域に踏み込んでいたと思う。

日本における、宗教的寛容と思われているものの大半は、単に宗教への無関心や無知である場合も多いと思う。

一方、信仰への熱意を持てば持つほど、人はよほど気をつけないと、容易に寛容を失い、熱狂・狂気へと変わっていってしまう。


そうこう考えると、信仰への熱意と寛容をあわせもった人物は、歴史上を振り返ってもそんなに多くはない。

日本においては、弘法大師と法然上人が稀な白眉だったように思われる。

後世において、どの程度、そうした信仰への熱意と寛容は、受け継がれたり、深められたと言えるだろう。

ほとんど、進歩していないのではないだろうか。


宗教的な熱狂や狂気が、決して過去のものではなく、甚大な被害をもたらすものであることは、9.11以後の世界ですでに私達はあまりにも見てきた。

9.11の六年前にあった、オーム真理教事件も、宗教における熱狂・狂信が、いかに恐ろしい事態を招くかを、すでに世界に示していた。

宗教的な熱狂や狂気は、現代社会でも、決してすでに克服された問題ではなく、今現にそこにある問題だ。

これは、イスラム原理主義やオーム真理教などの、特殊な人々だけではなく、アメリカにおけるキリスト教原理主義やネオコンも含めて考察すべき事柄だろう。


「熱狂」を拒否し続けながら、信仰への「熱意」を保ち続けること。

「寛容」を保ちながら、信仰への「無関心」は拒否し続けること。

これは、案外に非常に難しい、今もって、至難のわざだと思う。


法然やエラスムスの叡智に学びつつ、もしそれが本当にできた時、現代という時代は、自らの時代の優曇華の花や蔡花を咲かせることができるのかもしれない。

もし、それができなければ、熱狂が生む狂気の瓦礫か、信仰を失った無機質な砂漠か、

そのどちらか、あるいは両方が広がる、索漠とした世界だけが広がっていくのかもしれない。


現代の白道は、おそらく、信心と寛容の両方を備えた、稀有なバランスの上にだけありえるのではないかと思う。



【追記】

半年後、この文章を読み直して、基本的な考えは今も変わらないのですが、今読んでみると、ちょっと書き足りていないと思える部分があります。

その方は、熱狂を肯定している点では、法然上人の寛容の教えからは逸脱している危険があるのではないかと、むかしやりとりをさせていただいた時は思いました。

しかし、個人的にはとても立派な方だと思います。
少なくとも、その後、浄土門以外の大きな宗教団体の方々とネットを通してやりとりさせていただきましたが、中にはその態度やマナーや知性に大変ひどいと感じる出来事が多々ありました。

その某宗教団体の方々よりは、少なくともその浄土門の方の方が格段に真摯で紳士的な態度を終始一貫持っておられたと思いますし、知性もマナーも格段に上等の、立派な方だったと思います。

半年前に、しかも個人的なブログで書いたので、少々語調が厳しくなっているところはありますが、その方は一方でとても生真面目で良い方だと思っているので、その点は若干の但し書きを付けておきたいと思います。


(以上)

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