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親鸞会教義の相対化・26

清森義行様


コメント覧に、私の投稿に対する反論らしきものが書かれていましたので、以下のように反証させて頂きます。



>親鸞会教義の相対化・22(投稿4)
>清子さん

私は、言語の構造上、意味を明確に確定できるサンスクリット文を読むことで、親鸞聖人の教えがサンスクリット文とも矛盾しない教えであることを示し、一方チューリップ企画の山田さんの説が、漢訳『無量寿経』からも親鸞聖人の言葉にも根拠のない説であることを提示しただけです。

漢訳『無量寿経』が現存サンスクリット本と別のテキストから訳されたことが、チューリップ企画の山田さんの主張の正しさを裏付ける根拠にはなりません。

貴方がすべきことは、山田さんの説を裏付ける根拠を提出することでしょう。
根拠を裏付ける説を出さなければ、「捏造・虚偽」ということになります。
以前、iitikoさんにわかりやすい喩えで教えてあげた通りです。
http://kiyomori.mitekaite.com/?art_id=98

ちなみに私は、大学・大学院と『無量寿経』を專門に研究しており、サンスクリット文もチベット訳も漢訳五本も全て読んでおりますが、山田さんの説を裏付ける文は、本願文にも本願成就文にも出てきませんでした。

山田さんの説は、やじりを地中に埋め自分で掘り出す途中で見つかったような、「思想先行型」にすらなってない、経典に基づかない「私説」です。




>親鸞会教義の相対化・23
>Nobodyさん

まず、私の友人は「浄土宗」ではなく「浄土真宗」の方です。
私が浄土宗だからと言って、私の友人を浄土宗と勝手に決めつけないで頂きたいものです(苦笑)。

私は浄土宗ですが、浄土真宗にも親鸞会にも友人はいますし、親鸞会を除名された清森さんとも親しくさせて頂いております。

私の友人が証空上人に言及したのは、アニメで証空上人が、


『皆さん。釈尊が、この世にお生まれになったのは、阿弥陀如来の本願1つを説かれるためでした。どんな人でも、念仏さえ称えれば、死ねば必ず極楽浄土に連れていくという、ありがたいお約束です。』


という台詞を話すことによって、何も知らない方がご覧になった時に、その方が証空上人を誤解しないためです。

証空上人は、この世での救いを積極的にお説きになり、

 生きて身をはちすの上にやどさずば念佛まうす甲斐やなからん

という歌を詠んでおられます。

しかもこれは、

問うて云く。
摂取の益をかうぶる事は、平生か臨終か、いかん。

答えて云く。
平生の時なり。そのゆえは、往生の心まことにて、わが身を疑う事なくて、来迎をまつ人は、これ三心具足の念仏申す人なり。
この三心具足しぬれば、必ず極楽にうまるという事は、観経の説なり。

かかる志ある人を阿弥陀仏は、八万四千の光明をはなちて、てらし給うなり。

平生の時、照しはじめて、最後まで捨て給わぬなり。
故に不捨の誓約と申すなり。
「念佛往生要義抄」(昭法全六八七頁)

というように、「摂取の益は平生の時である」と、仰っておられる法然上人から学ばれたものであり、

>親鸞聖人に指摘されるまで、「往生」と言えば、
>「体失往生」しか知らなかった善恵房証空と、
>そっくりではないかと驚く人もあるでしょう。
http://tulip-tanaka.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/2007_1224_1233_5999.html

というように、親鸞聖人から学ばれたものではありません。

更に証空上人は、

三心発る時即便往生す、此時正しく仏も成仏し衆生も往生す。
『定散料簡義』

と仰せっていますから、「念仏さえ称えれば」などという台詞は、極めて不当なものであると思います。

私の友人は、証空上人に対する誤解を危惧して指摘しただけで、どこかの誰かさんのような、くだらない宗我見や宗派根性は持っておりません。

正確に情報を検討しようともせず、自分のつくりあげた幻の世界の正義感で、つくりあげた敵や悪と戦おうとするような、行為は慎みたいものです。


ついでなのでお勧めの本を紹介しておきましょう。

★浅井成海著『浄土教入門』(本願寺出版)

浅井先生は浄土真宗のお寺のご住職ですが、その学問の立場は、なるべく宗派意識を取り払い、法然上人と親鸞聖人、そしてその他の法然上人のお弟子達の教学を、なるべく客観的に見ていこうとする立場を取ってます。

この本は法然上人・親鸞聖人・弁長上人・証空上人の教えが、念仏とか本願とか信心とか人間観とかテーマ別に整理されていて便利です。
証空上人について語るのであれば、せめてこの本一冊ぐらいは読んでください。



>親鸞会教義の相対化・24
>kkkさん

そうですか。印象操作ではなかったのですか。単に私に投稿を依頼した清森さんや、私の投稿の主旨が、理解できてなかっただけなのですね。

それは大変失礼しました。

ただし、貴方の論点スライドにおつき会うつもりはありませんので、私が別の所で書かせて頂いた文を掲載させて頂いて、貴方に対する解答にかえさせていただきます。

私が言いたいことは以下の通りです。

なお、どれだけ執拗に私の人格を攻撃しても、私の論に対する反証にはなりませんので悪しからず。


=================以下転載=========
========

まず、以下の記述を見ていただきたいと思います。

若佛子。自説出家在家菩薩比丘比丘尼罪過。教人説罪過。
罪過因罪過縁罪過法罪過業。
而菩薩聞外道惡人及二乘惡人説佛法中非法非律。常生悲心教化是惡人輩。
令生大乘善信。
而菩薩反更自説佛法中罪過者。是菩薩波羅夷罪
(『梵網経』大正蔵経vol.24.p.1004c.)

(訳)
仏の子よ。
もしも出家や在家の菩薩や、比丘・比丘尼の罪過を自ら説き、他の人に教えて罪過を説かせたならば、それは罪過の原因となり、罪過の条件となり、罪過の法(教え)となり、罪過の業となる。

だから、菩薩は外道である悪人、さらに二乗である悪人が、仏法の中において法でないものや律でないものを説いているのを聞いたならば、常に慈しみの心を生じて、この悪人を教化して、大乗の善なる信心を生じさせなさい。

それなのに、菩薩がかえって更に自ら仏法の中における罪過を説いたならば、これは菩薩としては教団追放に値する罪なのである。



これは、釈尊が「仏の子」すなわち仏弟子に仰った言葉です。

釈尊は、出家者・在家者を問わず、仏弟子が他の人の罪過を、自ら説いたり、他の人に教えて説かせたりすることは、

それはその行為が、新たな罪過の原因となり条件となり、罪過となる教えとなり、罪過となる行為になるのでしてはいけない。

そのように禁じておられます。


つまり仏教者は、他の人に

「地獄に堕ちるわよ!」

と言ってはいけないのです。

それはなぜでしょうか?

善因楽果、悪因苦果、自業自得が仏教の業報思想ですが、現在行った行為の果報が、必ず来世に得られるものであるかどうかは、仏智を獲得した仏陀でなければ、わからないし、その行為が、本当に地獄に堕ちるような果報をもたらすものであるかどうかも、仏智を獲得した仏陀でなければ、わからないからです。

それなのに、他の人に「地獄に堕ちるわよ!」と言って、その人が地獄に堕ちることがなかったらどうなるでしょうか?

そうです。

「地獄に堕ちるわよ!」と言った人こそが、妄語の罪を犯し、その罪過をうけなければならなくなるのです。

だから釈尊は、仏弟子が、他の人の罪過を自ら説いたり、他の人に教えて説かせたりすることを禁じられたのです。

仏弟子が、罪過を犯した人に対する時は、常に慈しみの心を生じて、この悪人を教化し、大乗の善なる信心を生じさせるように、ひたすら導いていかなければならないのです。



それでは多くの仏典で、地獄や地獄行きの業が説かれているのはなぜでしょうか?

それは、釈尊が三明・六神通(※)という仏智でもって、どのような悪業を作った人が地獄に行くかを知り、そのような悪業を犯さないように、仏弟子逹に教えてくださっているからなのです。


一方、私達は三明・六神通からはほど遠い罪悪生死の凡夫です。

その私達が、罪業とその業果を論じる場合は、釈尊が、三明・六神通でご覧になったものをお説きになった経典に基き、「釈尊が『こういう業にはこういう果報がある』と仰っていた」という形でしか論じることはできないのです。


三明六神通を獲得してもいないのにも関わらず、凡夫のはからいで、

「あなた地獄に堕ちるわよ!」

と言う人は、仏教徒でも仏弟子ではありません。



・・・・・・・・・おまけ・・・・・・・・・

※三明・六神通について

まず、三明ですが、「明」は「知ること」だと思ってもらっていいと思います。
そんでもって、三つの「知ること」という超人的な能力を、仏様は獲得しています。

1)宿命明・・宿世(過去世)の因縁を知ること。自他の過去を知ること。
2)天眼明・・未来の果報(行為の結果)を知ること。自他の未来を知ること。
3)漏尽明・・煩悩を尽きた状態で、現在のものごとを知ること。

そして「六神通」というのは、「六つの超人的な能力」という意味ですが、上記の「三明」に以下の三つがプラスされます。

4)神足通・・自由に欲するところに現れる能力。
5)天耳通・・普通の人に聞こえない音を聞く能力。
6)他耳通・・他人の心を見通す能力。

これらを合体して、「三明・六神通」と言います。


サービスで三明がどういう感じでお経の説かれていたのかを、紹介しておきます。
(MN.vol.I,p.21f、中村元『ゴータマ・ブッタI』pp.412-414)

1)宿命明
このように心が統一され、清浄で、清らかで、よごれなく、穢れなく、柔らかで、巧みで、確立し不動となったときに、過去の生涯を想いおこす智に心を向けた。

こうしてわれは種々の過去の生涯を想いおこした。すなわち、一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、百千の生涯を、また幾多の宇宙成立期、幾多の宇宙破壊期、幾多の宇宙成立破壊期を。

「われはそこにおいて、これころの名であり、これこれの死に方をした。そこで死んでから、かしこに生まれた」と。

2)天眼明
このように心が統一され、清浄で、清らかで、よごれなく、穢れなく、柔らかで、巧みで、確立し不動となったときに、諸々の生存者の死生を知ることに、われは心を向けた。

すなわち、われは清浄で超人的な天眼をもって、諸々の生存者が死にまた生まれるのを見た。すなわち、卑賎なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なるものと不幸なるもの、として諸々の生存者がそれぞれの業に従っているのを見た。

「実にこれらの生存者は身に悪行をなし、ことばに悪行をなし、こころに悪行をなし、諸々の聖者をそしり、邪った見解をいだき、邪った見解にもとづく行為をなす。かれらは身体が破壊して死んだ後で、悪しきところ、堕ちたところ、地獄に生まれる。
また他のこれらの生存者は、身に善行をなし、ことばに善行をなし、こころに善行をなし、諸々の聖者をそしらず、正しい見解をいだき、正しい見解にもとづく行為をなす。かれらは身体が破壊して死んだ後で、善いところ、天の世界に生まれる」と。

3)漏尽明
このように心が統一され、清浄で、清らかで、よごれなく、穢れなく、柔らかで、巧みで、確立し不動となったときに、諸々の汚れを滅す智(漏尽智)に心を向けた。そこでこの[一切は]苦であると如実に知った。

われがこのように知り、このように見たときに、心は欲の汚れから解脱し、心は生存の汚れから解脱し、心は無明の汚れから解脱した。

解脱し終わったときに、「解脱した」という智が起こった。「生はききはてた。清浄行が完成した。なすべきことはすでになされた。もはやかかる生存の状態に達することはない」と知り終わった。

バラモンよ、これが夜の最後の部分において達せられた第三の明智である。ここに無明が滅びて、明智が生じたのである。闇黒を消滅して、光明が生じた。それがつとめはげみ努力精進励しつつある者に現れる如くに。



※※追記
ちなみに、法然上人が、「知らず地獄八熱の底にや、すみけん。恥ずるべし恥ずるべし、悲しむべし悲しむべし。」と仰り、その弟子の親鸞聖人が「地獄は一定すみかぞかし」と仰ったのは、どこまでも自分を厳しく見つめ、罪業観を深めていった結果、最終的に到達した境地であって、あくまでも自分の問題として仰ったものです。

「あなた地獄に堕ちるわよ!」

という意味で仰ったわけでないことは、言うまでもありません。

=================以上転載=========
========


なお、貴方が「思考停止出来ない自分」に苦しむ必要は全くありません。
私の拝見する限り、十二分に「思考停止」されています。

今後は、「思考停止」ではなく「プラサーダ(浄信)」を求めて頂きたいと思います。







追記

清森問答のコメント覧を読ませて頂くと、読まれた方の不注意か、意図的な印象操作かはわかりませんが、私の投稿が、清森さんや意見として扱われている部分があり、清森さんにも大変迷惑であり、私としても極めて心外であります。

元親鸞会講師部さんが、ご自身の投稿を『私の白道』と題され、お書きになられた文章に責任を持っておられますので、私も、清森問答で私が投稿した部分を明確にし、その部分を『親鸞会教義の相対化』と題しておきたいと思います。

そして、今後、私の投稿した記事に対する批判・反論は、清森さん宛てではなく、私宛てに書いて頂いて、清森さんに送っていただき、清森さんから私に転送していただく形にさせていただきたいと思います。

そして、私の記事に対する批判・反論が私を納得させるものであれば、私も潔く、自分の主張を撤回して誤りを正していきたいと思いますし、私の記事に対する批判・反論が不当なものであれば、その誤謬を徹底的に指摘させていただきたいと思っております。



ちなみに、これまで清森問答に投稿した私の記事は以下のものです。

【1】(質疑応答33)
1)法然上人の神道に対する距離感、
2)信前の念仏の重要性を紹介し、
3)証空上人を「体失往生」に当てはめる主張を歴史的事実として説くことの問題点を指摘しました。

【2】~【5】(質疑応答43~46)
親鸞会の『法戦』を相対化し、
1)信前の念仏の重要性
2)浄土仮宗という主張の不当性
3)他宗に対する寛容の重要性
4)他宗教に対する理解不足といった問題点を指摘しました。

【6】~【12】(質疑応答49~51、53~56)
親鸞会の『教学聖典』を相対化し、
1)「さとり」の定義
2)小乗仏教・大乗仏教の定義
3)異熟因・異熟果の理解
4)釈尊誕生時の伝承と三界の定義
5)「後世の一大事」の理解
6)宿善と六波羅蜜の理解等に関する問題点を指摘し、
7)道綽禅師の言葉を釈尊の言葉として伝えていることの不当性を指摘しました。

【13】(質疑応答57)
コメント覧にあった私宛の質問に回答し、
1)釈尊誕生時の伝承と三界の定義
2)宿善と六波羅蜜の理解
3)『大集経』所説の末法について、説明させて頂きました。

【14】(質疑応答60)
コメント覧にあった私宛の質問に回答し、1)道綽禅師の言葉を釈尊の言葉として伝えることの問題点を説明し、2)法然上人における、「善」と五種正行に関する位置づけに関して解説させて頂きました。

【15】~【19】(質疑応答69~73)
親鸞会のアニメを相対化し、
1)MC(マインドコントロール)とカルトの基準
2)流刑と西阿の破門
3)「一向專念無量寿仏でないと助からない」という表現について
4)追善について
5)追善としての「還相廻向」について述べされて頂きました。

【20】(投稿2)
清森さんから、「一切衆生必堕無間」という親鸞会教義が、(親鸞会以外の)仏教や(親鸞会以外の)浄土門で、妥当なものであるかとの質問を頂きましたので、全く不当であることを指摘させて頂きました。

【21】【22】(投稿3・4)
清森さんのリクエストにお答えして、願成就文のサンスクリット文とその和訳を紹介させて頂きました。
そして、上記の願成就文のサンスクリット文から、チューリップ企画の山田さんの主張が、全く意味のない見苦しいものであることを指摘し、あわせて、「思想先行型文献学」の誤謬を批判させていただきました。

【23】
親鸞会のアニメを見た友人の感想を、私のコメントとあわせて紹介させて頂きました。

【24】
私に対して、脊髄反射レベルのコメントをしている方がいるので、そのコメントの不当性を、資料に基づいて指摘させて頂きました。

【25】
信仰を誤って受け取った際に発生する「狂気」の恐ろしさを、的確に指摘している友人の提言を紹介させて頂きました。

【26】
今回の投稿です。

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