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質疑応答81

【質問】


ところで、清森問答の、「私の白道・5」の投稿を拝見しましたところ、一番、大切なところが書かれておらず、心配になりました。
結論として、この投稿者のかたは、華光会の書物に掲載されていて、かつ親鸞会の「これが獲信か」に掲載されている信心は、本物の信心だと思われているのでしょうか?

信前の身で他人の信心決定をどうこう言うのは危険なこと、と思ってはいますが、親鸞会の「これが獲信か」に掲載されている信心決定の様子は、私には、真実信心には思えません。
たとえば、人から責め立てられて罪悪感や無常感をつのらせて、一時の感情で盛り上がるのは、自己啓発セミナーなどでおなじみの、人の心理を操作する手法の一つだと思いますし、自分で納得できず人から認定される信心などは、阿弥陀仏を信じる前に、その認定してくれる人を信じなくてはいけませんから、全く一向専念無量寿仏に程遠いと思うのです。

投稿者のかたがいろいろと調べられた事実は、
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・親鸞会は異安心といって華光会を否定しているけれど、高森先生ご自身が、華光会で教えを受けて獲信したという過去がある。
・記録を見ると、そのときの高森先生の信心は、今現在、親鸞会で異安心と批判されているものと同じである。
----------------------
ということですよね。ここからはいろんな結論、例えば、次の三つなどが導き出せると思います。
----------------------
1.「これが獲信か」の内容が(華光会が)異安心なら、高森先生も異安心である。
2.1.の逆で、両方とも真実信心である。
3.高森先生は最初は異安心であったが、のちに正しい信心を得られた。
----------------------

私はいま、親鸞会に近い立場なので、3.を選んでしまうんですが、この投稿者の方は、1.か2.か(それ以外にもあるでしょうけれど)を考えられて、華光会のお話を聞き、高森先生のご法話を聞き、さまざまな書物などを読まれた結果として、
■今の高森先生のお話を聞いていたら信心決定できない。華光会で聞けばできる。
という結論に行かれたように読めました。

でも私には、上に書いた通り、「これが獲信か」に書かれている信心は本物と思えないし、華光会でそれを信心と認めているとしたら、華光会は、危険な団体だと思うのです。
「これが獲信か」には悪意があると、投稿者のかたは書かれていましたが、華光会のホームページでご法話の記録を見たところ、やはり実態は人工信心のようにみえました。
もちろん、少し読んだだけでは分からないところもあると思いますが…

一つの価値観に凝り固まっては危険、という主張は、私も納得するところなのですが、あの投稿を読むと、親鸞会への否定に乗じて、危険な場所へ、人を勧め入れてしまうのではないか、と思えて心配になりました。

もしよろしければ、清森様たちは華光会で説かれている教え、そこでの獲信について、どのように考えられているか、教えて頂ければ、幸いです。



【回答】


 投稿者に尋ねたところ、「これが獲信か」に掲載されている信心が、真実信心かどうかは分からない、と言われていました。高森先生の信心についても、分からないということでした。

 高森先生が、「獲信の記録(高森先生20歳の時の御著書)」では華光会の信心を勧めておられながら、一方で「これが獲信か」では徹底的に批判されているという点に、疑問を懐いておられるということです。

 私も「獲信の記録」を読みましたが、とても真実信心とは思えない体験談が多数、掲載されています。これを読みますと、高森先生を異安心だと非難する人があるのも分かります。

 思いますに、やはり体験談では、私達には、判断がつかないと思います。

 最近では少なくなりましたが、以前は、顕正新聞などに、獲信の体験談が、時々、掲載されていました。

 しかし、その後、すぐに亡くなられた方以外は、私の知る限りでは、ほとんど御縁を遠のけられてしまいました。

 真実信心で御縁を遠のけられる方も、あるかも知れませんが、多くは異安心だったのではないか、と思います。

 そうだとしますと、親鸞会でも、「異安心の体験談」を多数掲載してきたことになりますので、華光会のことばかりを非難できなくなると思います。

 私自身は、華光会の法話に参詣したこともありませんし、増井悟朗氏にお会いしたこともないので、華光会がどのような団体か、分かりません。

 増井吾郎氏の著書を読む限りでは、今まで高森先生から教えて頂いたことと、同じ事を教えている方だと思いました。

 また、同じ師の下で10年以上も共に学ばれた方でもありますし、おそらく高森先生と同じ信心だと思っております。

 ですが、真実信心と信じ難い体験談などを読むと、華光会の教え方については、どうなのか、という疑問も起きてきます。

 いずれにしましても、華光会については、私はよく知りませんので、その辺りは分からないとしか言いようがありません。


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COMMENTS

三業で信心は判らない

「これが獲信か」に掲載されているのは、華光会の書物に掲載されているものと土蔵秘事の体験と混ぜて掲載されているのではないでしょうか?「獲信の記録」を「とても真実信心と思えない」とのことですが、三業で信心は計れません。異安心のように感じるのは、長年親鸞会でご縁を求めてこられたからでしょう。でも、その教えは正しかったのか?私は、「獲信の記録」も華光会も真実信心と感じております。高森先生も真実信心と思っております。親鸞会の人は真実信心を「獲信の一念」の体験がどうであったか、ばかり問題にされているように感じます。大切なのは「過去の一念」ではなく「現在只今」自分に「二種深信」があるか、ないか、ではないかと思います。信心同異の浄論で「同じだ」といわれたのは、この二種深信の境地をいわれたので、「獲信の一念」のことではないのではないでしょうか。私見ですが、「獲信の一念」は「世世生生の初事」で、人によっては変性意識体験に近い体験を伴うひともあるように思います。たとえば「銀の棒がキラキラ」見えたからと言って「異安心」ときめつけることはできません。信心決定した人を異安心よばわりすることは法謗罪とお聞きしておりますので気をつけたいと思います。

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