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お詫びとお知らせ

 複数の方から、過去の投稿文が見当たらないという問い合わせを頂きましたので、お詫びとお知らせをしたいと思います。

 最近まで、元講師の方や、浄土宗僧侶の方の投稿を「質疑応答」として掲載してきましたが、カテゴリ分けをして欲しいという依頼を受けましたので、カテゴリを修正いたしました。

 その際、私がよく分からなかったのが原因ですが、再度、投稿した形になってしまったため、順番が大きく狂っています。

 質疑応答の一部が抜けているように見えるのは、そのためです。

 また、コメントが消えたという苦情も頂いておりますが、同様の理由で、私のミスです。

 皆様に御迷惑おかけしましたこと、深くお詫び申し上げます。

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COMMENTS

質問です

ブログを見ているものですが,清森さんは、上田祥広さんが信心決定したと思っておられるようですが、親鸞会のある講師との法論では、以下の質問に答えられていないようです。私は、正直なところ、上田さんやみなさんは、ある種の・・・ではないかと心配なのですが、どうなんでしょうか。
質問が長くなってしまうので,分割してコメントします。

--------------------------------------------------

 確かに、上田祥広君が、「私には3つの人格がある」と言っているのは
誰が聞いても、?ですからね。
「信心決定したら、人格が3つに分裂する」などとは、どのお聖教にもないことですから。

しかも、
 1.元々の上田の人格       → 煩悩
 2.過去世から引き継いだ人格   → 仏
 3.阿弥陀仏。説法している時の私 → 阿弥陀仏

などとなると、ちょっとこれは、手に負えない内容です。

とても、法論の対象となるようなものではありません。
別な対処が必要だと思われます。

 これは、2月の合宿だけではありません。
 3月の合宿でも、上田祥広君は同様のことを言っていたと、参加者から
聞いています。

 しかも、「人格が3つあるなんて、異常な体験だ」という、こちらの
指摘が耳に入ったのでしょう。「3つがおかしければ、2つでもいいで
すけど」と上田君は言い訳したそうですね。

 あまりのことに、怒りを通り越して、こっけいになりました。

 信心決定という体験は、人格が3つになったり、都合が悪ければ2つ
に減ったりするものではないのですよ。そんな根拠があったら、教えて
もらいたいものです。

 1.元々の上田の人格       → 煩悩
 2.過去世から引き継いだ人格   → 仏
 3.阿弥陀仏。説法している時の私 → 阿弥陀仏
ーーーーーーーーー(ここまで転送)

上田君はおそらく「三重人格じゃ、これは上田祥広の新発見じゃ」と
叫んでいることでしょう。


★「違う。自分たちは本当に親鸞学徒だ」と言うのなら、
「信心決定したら、人格が三つに分裂する」という根拠を、
親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人のお言葉で、示してください。

 これが、第1の質問です。

質問その2

(引用開始)--------------------------------------------------

 また上田祥広君は、信心決定した年を、岐阜や愛知の学生には、
「幼稚園のとき」とか「小学生のとき」と言っていながら、北海道など
では「15、6歳のとき」と言っていますね。

 そんなに2回も3回も、信心を頂いたのでしょうか。


 上田さん自身が、「幼稚園の時に救われた」とか、「小学生の時に救われた」などということは、一度も言ったことがない、と断言しています。
ーーーーーーーー(引用終わり)

聞いた人が数多く存在するのですから、しかたがありませんね。
おそらく本人は、言った自覚がないのでしょう。

なにしろ彼の断言は、まったくあてになりません。

信心決定という明らかな体験すら、「10年以上にわたって、ハッキリ
しなくても、オレは信心決定しているんだ」と断言するのですから。


★「10年以上も、救われたかどうかハッキリしないものが、信心決定
なのですか」
親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人のお言葉で、答えてください。

 これが、第2の質問です。

質問その3

(引用開始)--------------------------------------------------

 また、上田祥広君は、「救われても、本当に救われたかどうかの疑いは
ある。それは三業だから」とも言っています。

 多くの人が聞いていますよ。録音にも残っていますから。
 斎尾君も、何度も聞いているでしょう。
 それが、他力の信心でしょうか?

 上田くんは、疑情と疑煩悩の違いさえ、分かっていないんじゃありませんか。
二種深信さえ、分かってないのではないですか。信疑決判さえ、理解できて
いないのではありませんか。

 斎尾君は、どう思っているのですか?
 上田祥広君は信心決定していると、いまでも本気で信じているのですか?


 本当に、録音を聞かれたのでしょうか?


何度も聞いて確認しましたよ。

あまりにも、異常ですからね。


 この話は、「本当に、救われたのだろうか?」という疑いが起きても、「こんなハッキリした救いなのに、疑いの心が起きるとは、浅ましいものだ」といよいよ往生は一定とハッキリするのです。

「本当に救われたのだろうか?」は疑煩悩。それでもいよいよ往生は一定とハッキリしているのが、疑情が晴れているという状態です。
ーーーーーーーーーー(引用終わり)

君はこれ、本気で言っているのかい?

歎異鈔9章と同じようなものだと思っているようだが、歎異鈔で問題に
されているのは「よろこぶ心がない」という煩悩だよ。

「本当に救われたのだろうか?」は疑情と言うのだよ。

信心決定すれば、この疑いは微塵もなくなる。
「本願に対する疑いがある」のは、まだ救われていない証拠です。

これを信疑決判というのです。


 だから、上田祥広くんの信心は、疑心往生という異安心だ。

彼の話は、親鸞聖人のみ教えを破壊する邪義であり、大謗法である。
そんな邪義に同調し、宣伝している君も、大変な罪を作っていることに
なる。

猛省せよ。そして、しっかり教学を勉強しなおしなさい。


★「本当に救われたのだろうか?」という疑いの心があるままで、信心
決定できるのですか。親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人のお言葉で、答え
てください。

 これが、第3の質問です。

質問その4

(引用開始)--------------------------------------------------

 また、上田祥広君は、「龍神に救われたと思った」と言っているそう
ですね。

 そんなものが、本当に信心決定だと思いますか?
 何か、別の体験ではないでしょうか。

 聞くほどに、知るほどに、痛々しいばかりです。

 明らかに、親鸞聖人の教えられた信心とは異なる、異常な信心だからです。

 上田祥広君の、「まず体験ありき」の姿勢が、このような結果を生んだの
でしょう。

 もし、仏教の「阿弥陀仏」という言葉を、「龍神」と置き換えて教えたら、その人は救われるのでしょうか?救われないのでしょうか?

 福田支部長の主張は、「阿弥陀仏」という単語を知らなければ、救われないということで宜しいですね?

--------------------------------------------------(引用終わり)

こういうのを、戯論、愚問の典型と言うのです。
もっと落ち着きましょう。

(引用開始)ーーーー

 高森先生のご説法を、せっかく10年も聴聞させていただきながら、
自分の体験に教えを都合よく合わせて聞いた結果が、こんな悲劇を生んだ
です。

 上田祥広君と同期の学生たちや、彼をよく知る人たちも、このブログの
やり取りを見て、「彼は学生時代から、根拠のないことでも、よく断言し
いました。相変わらずですね」と言っていました。

 学院でも、そのことが彼の問題点だったと聞いています。
ーーーーーーー
(略)
ーーーーーーー
 自分の間違いに気づいても、そのまま言い張る男だった、と同期の学院生も語っていました。

 他のことならともかく、こと仏法のことは、間違いに気づいたら、直ちに正さなければなりませんよ。遊びではない。後生の一大事がかかっているのですから。

 ところが、親鸞聖人のみ教えとは似ても似つかぬ、こんな邪教じみた教義を、斎尾君らが、うんうんと、よくうなづいて聞いているというのですから、悲劇はさらに深刻です。

 しかも、その上田祥広君の体験に合わないところは、君たち二人とも、
親鸞聖人の教えを間違いとし、陰にまわって、高森先生のご教導がおかしいと放言するにいたっては、ただただ、言葉を失うしかありません。

 それが君たちだけのことなら、何を言っても無駄、かわいそうだが今は
放っておくしかない、とも思いましたが、さらに、そんな異常な体験者の話を、
「親鸞聖人の教えです。高森先生のご説法と同じ内容です」
と言って、多くの人に送りつけるとなっては、とても見過ごすことは
できません。
ーーーーーー(引用終わり)

★高森先生に対する誹謗中傷を、うなづいて同意している君も、同罪だ。
まさか、心当たりがない、などとは言わないだろうね。

 これが第4の質問です。

質問その5

そんな君たちが、
(引用)ーーーー
少しでも会長先生の御恩にお応え出来るよう、常に会長先生の御教導を
明かりとして、光に向かって進ませて頂いております。
ーーーー(引用終わり)
とは、よほど神経が麻痺していないと、言えないことだ。

高森先生に対する愚かな誹謗中傷を、上田祥広くんがくりかえすのを、
君もよくうなづいて聞いているのだから。3月の合宿でも、二人で言い
あっていたそうだね。

その合宿の参加者(わずか6、7名だったが)の中にも、
「上田の話もおかしいし、斎尾の教学も変だ。聞いていると、こちらの
頭がおかしくなる」と言う人が複数います。

この人たちは正常ですね。

北海道でも、上田くんは、先生や本会の悪口をあまりにも言うものだか
ら、参詣者があきれて来なくなり、とても聞いておれなくなったDさん
からも、「そんなこと言うのはやめなさい」と注意されたらしいね。

君たちは、大恩ある高森先生に対してさえも、そんな愚かな言動を繰返
している。本当に、人間として恥ずかしいと思わないのか。情けないと
思う心はないのか。

二人とも、早くまともな人間の心を取り戻してもらいたいものです。
今のままでは、とても仏法は心に入りません。

また、君たちに惑わされて、高森先生や本会とのご縁を遠ざけた方は、
本当にお気の毒です。

★弥陀に救われた人は、「仏願に疑心有ることなし」「弥陀の本願、間
違いなかった」と法の深信が立ちます。弥陀の本願にツユチリの疑いも
なくなるのですが、そんな人が、「本当に救われたのだろうか?」
「誰に救われたか分からなかった」「龍神に救われたと思った」という
疑問が起きるのでしょうか?

 これが、第5の質問です。

質問その6ー9

★弥陀に救われた人は、「一向専念無量寿仏(阿弥陀仏)」と心がハッ
キリ定まるのですが、そんな人が、「本当に救われたのだろうか?」
「誰に救われたか分からなかった」「龍神に救われたと思った」という
疑問が起きるのでしょうか?

 これが、第6の質問です。

★弥陀に救われた人は、「雑行を棄てて、本願に帰す」(親鸞聖人)
「もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて、一心に阿弥陀如来」(蓮
如上人)とハッキリした人ですが、そんな人が、「本当に救われたのだ
ろうか?」「誰に救われたか分からなかった」「龍神に救われたと思っ
た」という疑問が起きるのでしょうか?

 これが、第7の質問です。

★弥陀に救われた人は、仏凡一体で、南無阿弥陀仏と一体になるのです
が、そんな人が、「本当に救われたのだろうか?」「誰に救われたか分
からなかった」「龍神に救われたと思った」という疑問が起きるのでし
ょうか?

 これが、第8の質問です。

★弥陀に救われた人は、弥陀の呼び声が聞こえた人ですが、そんな人が、
「本当に救われたのだろうか?」「誰に救われたか分からなかった」
「龍神に救われたと思った」という疑問が起きるのでしょうか?

 これが、第9の質問です。

 上記いずれも、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人のお言葉で答えてくだ
さい。

質問その10

(引用)--------------------------------------------------

 質問5~9は、まったく同じ内容の質問ですね。まとめて答えますが、
 信心決定しても、

「本当に救われたのだろうか?」という意業は起きる可能性がある。
「誰に救われたか分からなかった」という意業は起きる可能性がある。
「龍神に救われたと思った」という意業は起きる可能性がある。

●さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし。(歎異鈔)
ーーーーーーーーーーー(引用終わり)

やれやれ、結局、君たちの最後のよりどころは、歎異鈔のこれか。

「カミソリ聖教」と言われるように、信仰の幼稚園が歎異鈔を振り回す
と、こういうとんでもないことになるのだ、ということがよく分かりま
す。

 確認しますが、君たちの主張は、

★「本当に救われたのだろうか?と疑っている二種深信もある」

★「誰に救われたか分からないような、二種深信もある」

★「龍神に救われたと思った、というような二種深信もある」
 ということでいいですね。

 これが、第10の質問です。

質問その11

本願成就文に反し、教行信証のご教示に反し、御文章のご文にも合わな
い異常な発言を繰返しながら、どんなおかしな言動も、都合の悪いこと
は、みな三業にしてしまって、「三業では信心を判断できないのだから、
信心は、まちがいとは言えない」という君たちの論法には、あいた口が
ふさがらない。

それでいて、上田くんの都合のいい三業だけを集めて、だから信心は間
違いない、と判断している。

闇の中では、闇を闇とも分からないように、疑情の真っ只中にいながら、
疑情が疑情と分からないのが、君たちの姿です。

結局、上田祥広くんは

「おれは、本当に救われたんだろうか?と疑っているが、弥陀の本願に
疑い晴れた」
「おれは、誰に救われたか分からないが、二種深信が立った」
「おれは、龍神に救われたと思っているけど、雑行が廃った」

と言っていることになる。

こんなおかしな信心決定がありますか?

これも意業だから、可能性はある、とでも言うつもりかな?

釈尊も、七高僧も、親鸞、覚如、蓮如上人も、いや教学のない妙好人で
すら、こんなでたらめなことを言っている人は、一人もありません。
まさしく、「上田祥広の新発見じゃ~」でしょう。

きわめて「珍しき法」です。

しかも、「弥陀の本願に救われていた」と分かったのは、大学に入って、
高森先生から本当の親鸞聖人の教えを聞かせていただいてからだと言う。
それも、10年くらいは、「自分の信心は異安心にちがいない」と思い
ながら、だんだん、「やっぱり龍神ではなくて、阿弥陀仏に救われたん
だろうか」と思うようになって、10年してから、「やっぱりあの体験
は弥陀の救いにまちがいなかったんだ」と思うようになった、というこ
とになる。

これでは一体、いつ弥陀の本願に疑い晴れたのやら、さっぱり分からな
い。聴聞しているうちに、おかしな自分の体験に教えを当てはめて、自
分でだんだん思いこむようになった自力の信心です。

「この思い込みが崩されたくない」「あれは間違いなく信心決定なんだ」
と思っていたいから、「弥陀の本願に対する疑い」=疑情を、疑情と認
められず、意業だと言い張っている自力我慢の心が、一向に目覚めるこ
とができない原因なのです。

さて、上田祥広くんのおかしな信心から出てくる、おかしな言動につい
て、さらに追及しましょう。

★謗法罪について、
「善知識の人格に対して、文句を言うこと自体は謗法罪にはならない」
と言っているが、親鸞聖人は、どこにそんなことおっしゃっていますか。

『末灯鈔』には、「善知識をおろかに思い、師をそしる者をば、謗法の
者と申すなり」と仰っています。

上田説のお聖教の根拠をあげてもらいたい。

 これが、第11の質問です。

質問その12ー16

★「善知識の条件は、
 1.心の豊かさ、2.教学力が完璧、3.信心決定の体験 である」
と言っているが、「善知識の条件は心が豊かなことである」などという
お聖教の御文を見たことがありません。どこでしょうか?

 これが、第12の質問です。

★「善知識の説法は、仏法の質問をされたことに答える時のみ、
 弥陀の説法となる。善知識が正しい発言をするのは、この時のみ」
と言っていますが、大変理解に苦しむ文章です。
 こんなことが、お聖教のどこに書かれていますか?

 これが、第13の質問です。

★「親鸞聖人の教えは、死にそうな人にこそ効果がある」
と言っているが、これは、「一実円満の真教」の親鸞聖人の教えが、
死にそうでない人には、あまり効果がない、と言っていることになりま
す。

親鸞聖人の教えは、三願転入であり、三願いずれも
弥陀が「十方衆生」を相手に誓われています。

上田祥広くんは、どうやら阿弥陀仏や親鸞聖人よりもドえらいお方のよ
うで、とても尋常とは思えません。

「親鸞聖人の教えは、死にそうな人にこそ効果がある」
のお聖教の根拠をあげてください。

また、その人が「死にそうな人」か、そうでないかを、
誰が判断できるのでしょう?

これが、第14の質問です。


★因果の道理の「善果」は「他から認めてもらえること」
「悪果」は「他から否定されること」と言っていますが、
その仏説の根拠は?
 上田くんは、よほど、他から認めてもらいたいのでしょうね。

 これが、第15の質問です。

★「聴聞して、自分が真剣になれず、苦しくなったら、聴聞は悪因にな
る」と意味不明なことを言っているが、その根拠は?

 これが、第16の質問です。

質問その17ー23

★真実開顕して、自分が苦しくなったら、真実開顕の行為も悪因になる
のでしょうか?

 これが、第18の質問です。


★上記とすると、親鸞聖人が肉食妻帯や三大諍論で非難攻撃を浴びられ、
いじめられ、つらい目に会われたのは、肉食妻帯や三大諍論が「悪因」
であったということですか?

 これが、第19の質問です。


★「仏教を自分で解釈して伝えろ。間違えて伝えてもよい」と言ってい
るが、そんな根拠は?

 これが、第20の質問です。

★「勤行したくないときは、しなくてよい」という根拠は?
 これが、第21の質問です。

★「自分の心が追い求めているものに素直に従え」と言うが、それでは
金や酒や女など煩悩のままに生きることになり、光に向かって進むこと
にならないのではないか?善導大師の教えられた「二河白道」にならな
いが、それでいいのですか?

 これが、第22の質問です。

★「愚痴はどんどん言うべき。ただし、心が豊かな人に対して言うべき
だ」という根拠は?

 これが、第23の質問です。

質問その24-30

★「十九願は、世の中が幸せになる教え」という根拠は?
 これでは、後生の一大事という目的が抜けているのではないか?

 これが、第24の質問です。


★「親鸞聖人の教えは、方便を省くので決定も早いが、疑い一杯になる
ので、すぐ挫折する」と言っている根拠は?
 三願転入と言うのは、方便を省くと言うことか?
 上記だとすると、従仮入真にならないではないか?

 これが、第25の質問です。


★「20願の人には、善知識がそばにいて、つねに教えてやらないと決
定までいたらない」という根拠は?
 上田くんによると、「若い女の子限定」で、すぐ20願に入れてもら
い、善知識である上田くんがそばにいないと決定できないよ、と言うそ
うだが、その根拠は?

 これが、第26の質問です。


★ある女性Aさんに対して、「今晩、信心決定するかもしれないよ」と
言いながら、できないと「やっぱり19願に逆戻りだ」と言い、そのう
ち「やっぱりゼロからやりなおしだね」と言ったというが、上田くんに、
そんなことを言う資格があるのか?

 これが、第27の質問です。


★斎尾くんも、同様のことを、上田くんから言われ、もう一度ゼロから
やり直していると言うが、本当か?また、君は、それを本気で信じてい
るのか?

 これが、第28の質問です。


★「今晩、信心決定するかどうか」ということが、上田くんに分かるの
か?まったく分かっていないから、全部外れて、あとで言い訳している
のではないか。

 これが、第29の質問です。


★「幸せな人にはじめて無常観がある」と言う根拠は?
 上記とすると、子供や親や配偶者を失った不幸な人が、その無常観か
ら仏法を求め始めることがよくあるが、それはどうなるのか?

 これが、第30の質問です。

質問31-33

★「善知識が何かを強制してきたら、それに従う必要はない」と言う根
拠は?
 上記とすると、善知識が「雑行を棄てよ」といわれても、自分が
神に頭を下げたいと思う人は、従わなくてよい、ということか?

 これが、第31の質問です。


★「仏様に対する罵倒は、謗法罪にならない」という根拠は?
 上記とすると、阿弥陀仏や釈迦をどんなに罵倒しても、謗法罪になら
ないのか?

 これが、第32の質問です。


ついでに、

★信心決定は、さとりの41段で、まだまだ上にのぼらなければならな
いといっているそうだが、その根拠は?

 これが、第33の質問です。

信心決定はさとりの41段でまだまだ上に???

>★信心決定は、さとりの41段で、まだまだ上にのぼらなければならないと
>いっているそうだが、その根拠は?

こういうことは真宗の教えにないはずだ。
真宗で言う「正定聚不退転の位」は、少なくとも四十八位の「不動地」以上と言う人がいるのは知ってるが、
それは信後さらに菩薩の修行の段階が進むということではないと思う。
信後に信味が深まるのと菩薩の位が上がることとは全く違う。

菩薩の修行の段階が信後に進むのなら
仏のかたよりたまはる他力金剛心が信後にかわることになる。
それでは一味の信心にならない。

それとも菩薩の段階は違っても信心は同じとでも言うおつもりか。
ならば、五品の位(親鸞会では五品弟子位)の人の信心も等覚の人の信心も同じか?
自力のさとりをよく知っているわけではないが、一段でも位が違えば信心も全く違うはずだ。

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