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親鸞会教義の相対化・28


高森先生は、阿弥陀仏は18願で十方衆生を「唯除逆謗の者」と見てとられていると教えて下さいますが、これは間違いだと思われますか?

>>>

 結論から言うと間違いだと思います。
 これは、高森先生個人に限定された味わいであって、他の人に適応されるものではありませんし、ましてや、他宗や他宗教の方に適応させることができるものではないと思います。

 以下に根拠を述べておきたいと思います。


§1サンスクリット文の本願文

 既に紹介しておりますが、サンスクリット文の本願文は、漢訳『無量寿経』の第十八願と第二十願に相当した形になっていて、以下のようになっております。

世尊よ、私が覚りに到達したとき、無量で数えきれない仏国土でわたしの名前を聞いて、

その私の仏国土に生まれたいという心をおこし、もろもろの善根を振り向ける衆生たちが、

もしも十度までも心をおこしても、彼らがその仏国土に生まれることがないようであったら、

そのあいだは、私はこの上ない完全な覚りを完成させることがないであろう。

ただし、直ちにその報を受けなければならない程の極悪な行為をした衆生や、正法を誹謗するという覆いにおおわれている衆生は除いてである。


 阿弥陀仏の救済の対象は、「無量で数えきれない仏国土」(=十方)で、阿弥陀仏の名前を聞いて、極楽浄土に生まれたいという心をおこし、もろもろの善根を振り向ける衆生たちであって、

そこから、直ちにその報を受けなければならない程の極悪な行為(=五逆)をした衆生や、正法を誹謗するという覆いにおおわれている衆生が除かれているのであって、

救いの対象が、最初から「十方衆生」=「唯除逆謗の者」ということは絶対にありません。


 既に述べたように、サンスクリット文は文法上名詞や動詞の格関係が正確に確定できますので、きちんとした文法知識があれば、誤った解釈は絶対におきません。



§2曇鸞大師・善導大師

高森先生の解釈は、

●「五逆と正法を誹謗した者は浄土往生から除く」
by.『無量寿経』
●「五逆罪を犯したものでさえ、まごころをこめて、お念仏を申せば救われる」
by.『観無量寿経』

という問題にアプローチしている、曇鸞大師・善導大師の解釈に抵触します。


2-1曇鸞大師の解釈

★曇鸞大師の解釈

曇鸞大師は、この問題を『往生論註』八番問答で、

1)五逆罪と正法を誹謗する罪の、二つの重い罪を犯したものは往生できない。
2)五逆罪のみを犯しても、正法を誹謗する罪を犯していないものは往生できる。
3)正法を誹謗する罪はすごく重いので、五逆罪を犯してなくても往生できない。

というように、「正法を誹謗しなければ極楽浄土に往生できる」と解釈しています。


★「正法を謗る」とは?
また曇鸞大師は、

問う。「正法を謗る」というのは、具体的にどのようなことか?

答える。もしも、
「仏はいない!」「仏の説いた法はない!」
「菩薩はいない!」「菩薩の実践する法はない!」
というようなことを言って、このような見解を、自ら抱き、あるいは他の人から教えられて持って、その誤った見解に、心が定まってしまうことを、「正法を謗る」というのである。


というように、

「正法を謗る」というのは、単に「けなす」とか「ののしる」というのではなく、仏や仏の説いた法や、その法に従って実践する存在を、根底から否定することを意味しています。


★闇を照らす光の譬え

その上で、

たとえば、千年間も光が入らない闇室に、一瞬でも光が入れば、たちまち明るくなるようなものである。
闇は千年間も室の中にあったのだから、光が入っても去らない、ということがありえようか。(いやありえない)

という譬えでもって、五逆の罪がどれほど重くても、阿弥陀仏の名号を十回称える無上の信心があれば、全ての罪が除かれると解釈しておられます。

つまり、
1)釈尊や阿弥陀仏という仏の存在。
2)阿弥陀仏の本願を信じてお念仏申すことによって、極楽浄土に往生することができる。
という、お念仏の教えそのものの存在。

これらを否定することなく、信じてその通りにお念仏を申すならば、「正法を謗る」ことにはならず、最も重い罪を犯していないので、たとえ五逆罪を犯していたとしても、千年の闇を一瞬で光が照らすように、全ての罪が除かれ、極楽浄土に往生することができる。

ということになります。



2-2善導大師の解釈

問う。
『無量寿経』の四十八願の第十八願には、「ただ五逆と正法を誹謗するものを除く」とあって、これらの者の往生を許さないが、いまこの『観経』の下品下生のところでは、正法を誹謗するものをえらび除いて、五逆のものをおさめ取って、往生できるとしているのは、いったいどういう意図があるのか?

答える。
 このことについては、仏意を仰ぎおしはかって、抑えとどめる教えの上で解釈する。
 四十八願の中で、法を誹謗するものと五逆とを除いているのは、実にこの二つの悪業はその障りが非常に重く、衆生がもし犯したならば、ただちに阿鼻地獄におちて、途方もなく長いあいだ苦しみもがいて、ついに出る道がないから、ただ如来はこの二つの罪過を犯すことを恐れて、たくみなてだてとして制止し、往生できないと説かれのであって、これもまた、おさめとらぬというのではない。

 また下品下生の文の中で、五逆はおさめとって、正法を誹謗するものを除いているのは、五逆はすでに犯してしまっており、このまま見捨てて、迷いの世界に流転させることはできないから、かえって大悲をおこして、これをおさめとって往生させるのであるが、法を誹謗する罪はまだ犯していないから、これを制止して、もし法を誹謗するならば往生はできない、と説かれるのである。

 これはまだ悪業をつくっていない点について解釈するのであって、もし罪を犯したならば、かえってこれをおさめとって往生させるのである。


というように、


★「五逆と正法を誹謗した者は浄土往生から除く」(『無量寿経』)という記述は、
まだ五逆罪と正法を誹謗する罪を犯していない者に対して、「もしこのような罪を犯したならば往生はできない!」と戒めて、おさえとどめるための教え
⇒抑止門(おくしもん)であると解釈されます。

★「五逆罪を犯したものでさえ、まごころをこめて、お念仏を申せば救われる」(『観経』)という記述は、
すでに五逆罪を犯してしまった者であっても、阿弥陀仏は見捨てることなく、大悲をもって救い取って往生させることを示すための教え
⇒摂取門(せっしゅもん)であると解釈されます。


 つまり、最終的には『観経』の記述のように、五逆の罪を犯したものであっても救い取るのですが、人々がそのことに甘んじて罪を造ってしまうことを未然に防ぐために、『無量寿経』では、人々を巧みに導くために、「五逆と正法を誹謗した者は浄土往生から除く」と述べておられる。

そのように解釈されています。


★いずれにしても、高森先生の仰るように、
最初から「十方衆生」=「唯除逆謗の者」であったら成り立たない解釈です。



§3法然上人

更に法然上人の言葉から検討してみたいと思います。

3-1五逆は許される

 まず、法然上人が五逆と誹謗正法をどのように位置づけているかを確認します。

十方に浄土多けれど、西方を願うは、十悪五逆の衆生の生(うま)るる故なり
『一紙小消息』

 このように法然上人が、「五逆罪を犯したものでも極楽浄土に往生できる」とお示しになっていることは、これは『観無量寿経』の所説に基づくものであり、曇鸞大師・善導大師の所説とも抵触しません。


3-2誹謗正法は許されない

 ただし法然上人は、「誹謗正法」を犯すことを厳しく戒めておられます。


3-2ー1『選択集』

而るに今図らざるに仰を蒙る。辞謝するに地無し。
仍って今憖に念仏の要文を集め、剰え念仏の要義を述ぶ。
ただ命旨を顧みて不敏を顧みず。これすなわち無慙無愧のはなはだしきなり。
庶幾わくは一たび高覧を経てのち、壁底に埋めて窓前に遺すこと莫れ。
恐らくは破法の人をして、悪道に堕せしめんことを。

『選択集』を一度ご覧になったら、壁の底に埋めて頂きたい。
と法然上人が九条兼実公に仰っておられるのは、念仏の教えに反感を持つ人が『選択集』を見たために、念仏の教えを誹謗し、その結果、その人が悪道に墮ちることを恐れるからです。

 最初から「十方衆生」=「唯除逆謗の者」であったら、法然上人が、このようなことをわざわざ言う必要はありません。


3-2ー2『登山状』

餘行を謗じ念佛を謗ぜん、おなじくこれ逆罪也。
とらおほかみに害せられん、獅子に害せられん、ともにかならず死すべし。
これをも謗ずべからず、かれをもそねむべからず、ともにみな佛法也。
たがひに偏執することなかれ。
像法決疑経にいはく、三学の行人たがひに毀謗して、地獄にいることとき矢のごとしといへり。
又大論にいはく、自法を愛染するゆへに他人の法を毀呰すれば、持戒の行人なりといへども、地獄の苦をまぬかれずといへり。


 念仏を誹謗することも、念仏以外の諸行を誹謗することも、どちらも同じく誹謗正法の罪を犯してしまうことになり、このような行為は、地獄に墮ちてしまうことになるのが、『像法決疑経』や『大智度論』からも明かであると、法然上人が述べておられます。

 これも、最初から「十方衆生」=「唯除逆謗の者」であったら、わざわざ言う必要はありません。


3-3不当な罪業観からの解放

これは既に【相対化・10】で紹介したことですが、
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-55.html

 法然上人は深い懺悔の言葉を沢山残されておられますが、同時に、不当な罪業観に苦しむ人に対して、とても勇気付けられる大切な言葉を残しておられます。

五逆十悪の重き罪造りたる悪人なお十声一声の念仏によりて往生しそうらわんに、まして罪造らせおわします御事は何事かそうろうべき。
たといそうろうべきにても幾程の事かはそうろうべき。
この『経』に説かれてそうろう罪人にはいい比ぶべくやはそうろう。
「正如房へ遣わす御文」


 この言葉では、現実の不条理に苦しんでいる人に対して、あなた方は自分が罪深い、罪深いと考えているが、実際に何をしたというのか。
 親を殺したのか、仏を傷つけたのか、何もしていないではないか。
 経典に述べられるような罪人と比べると、大した罪など犯していないではないか。

というように過剰な罪業観に悩むことがないことを、はっきりとお説きになっています。

さらに、

かの三宝滅尽の時の念仏者と当時の御房達と比ぶれば、当時の御坊達は仏のごとし。
『十二問答』

末法万年後の人間と比べたならば、今のあなた方は仏のような存在である。

と語って、不当な罪意識から民衆の心を解き放っておられます。


 この言葉からも、「十方衆生」=「唯除逆謗の者」という主張が不当であることが、明確になるのではないかと思います。



 以上の考察から、法然上人に至るまでの浄土門の教えと、「十方衆生」=「唯除逆謗の者」という主張が抵触することが証明されたと思います。



§4日蓮聖人

「十方衆生」=「唯除逆謗の者」という主張は、「一切衆生必墮無間」とセットになって、墮地獄の恐怖で人を支配するシステムを構築していると思います。

 これは、明らかに正統な浄土門の教えではないと思います。

 最後に、「不信=誹謗=墮地獄」という論を説いている、日蓮聖人の論を参考に紹介させていただきます。


4-1「十四誹謗」

次に毀謗と云うは即不信なり信は道の源功徳の母と云へり
菩薩の五十二位には十信を本と為し十信の位には信心を始と為し
諸の悪業煩悩は不信を本と為す云云、
然ば譬喩品の十四誹謗も不信を以て体と為せり
今の念仏門は不信と云い誹謗と云い争か入阿鼻獄の句を遁れんや、
『念仏無間地獄抄』


 このように日蓮聖人においては、『法華経』譬喩品に説かれる「十四誹謗」の中心が「不信」であり、『法華経』を信じ行じなければ、それは即ち誹謗であり、浄土門の教えは、『法華経』に基づかない教えであるので、地獄に堕ちると仰っておられます。

※十四誹謗

驕慢、懈怠、計我(我見)、浅識、著欲、不解、不信、顰蹙、疑惑、誹謗、軽善、憎善、恨善


4-2『法華経』譬喩品の検証

ただし、『法華経』譬喩品第三を見ると、

舎利弗驕慢懈怠我見を計する者には此の経を説くことなかれ
凡夫の浅識深く五欲に著せるは聞くとも解すること能わじ
亦為に説くことなかれ
若し人信ぜずして此の経を毀謗せば則ち一切世間の仏種を断ぜん
或は復顰蹙して疑惑を懐かん汝当に此の人の罪報を説くを聴くべし
若しは仏の在世若しは滅度の後に其れ斯の如き経典を誹謗することあらん
経を読誦し書持することあらん者を見て軽賎憎嫉して結恨を懐かん
此の人の罪報を汝今復聴け其の人命終して阿鼻獄に入らん
一劫を具足して劫尽きなば更生れん是の如く展転して無数劫に至らん

というように、

驕慢、懈怠、計我(我見)、浅識、著欲、不解、不信、顰蹙、疑惑、誹謗、軽善、憎善、恨善

という単語は出てきますが、「不信=誹謗=墮地獄」という論理は成り立ちません。


 また、サンスクリット文『法華経』の該当箇所和訳を見ても、

頑固な人々や、高慢な人々や、正しい修行をしない人々に、お前はこれを説いてはならない。
愚か者たちは常に愛欲に酔いしれていて無知であるから、説かれたこの教えをあしざまに言うであろう。
仏陀の導きとして常に世の中に確立されている私の巧みな方便を誹謗し、眉をひそめて(教えの)乗り物を捨て去る、このような人がこの世でうける果報がいかにきびしいものであるかを、お前は聞け。
私がまだこの世にいるあいだにせよ、完全な涅槃にはいったのちにせよ、このようなこの経典を誹謗し、あるいは比丘たちに対して苛酷な振る舞いをして彼らがうける報いがいかなるものかを、いまや私に聞け。
これらの愚か者たちが人間としての生を終えてから住んでいるところは、一劫が滿ちるあいだ、アヴィーチ(阿鼻)の地獄である。
そののちさらに多くの中劫のあいだ、彼らは幾度も死んでは再びそこへ落ちていく。
(『大乘仏典5』p.117)

とあって、

1)説かれたこの教え(=法華経)をあしざまに言う
2)仏陀の導きとして常に世の中に確立されている私の巧みな方便を誹謗する
3)眉をひそめて(教えの)乗り物を捨て去る
4)この経典(=法華経)を誹謗し、あるいは比丘たちに対して苛酷な振る舞いをする

をすると、謗法罪になり来世に阿鼻地獄に墜ちてしまうことは明かですが、
「不信=誹謗=墮地獄」と言うことは言えないことは明かです。




私見ですが、

「十方衆生」=「唯除逆謗の者」→「一切衆生必墮無間」

という論理は、正統な浄土門の教えから導き出されたものではなく、また、『法華経』のような他宗の所依の経典から導き出されたものでもなく、

むしろ『法華経』の経文を極端に拡大解釈した日蓮聖人の教えのような、特殊な解釈から導き出された論理なのではないかと思いました。


いずれにしても、経文になく法然上人の教えに抵触する教えは、正統な浄土門の教えとは絶対に言えません。

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COMMENTS

No title

>「十方衆生」=「唯除逆謗の者」→「一切衆生必墮無間」

>という論理は、正統な浄土門の教えから導き出されたものではなく、また、『法華経』のような他宗の所依の経典から導き出されたものでもなく、

>むしろ『法華経』の経文を極端に拡大解釈した日蓮聖人の教えのような、特殊な解釈から導き出された論理なのではないかと思いました。


つまり、「一切衆生必墮無間」は創価学会のパクリということですか!
たしか「破邪顕正」も創価学会のパクリだよな…

親鸞会って創価学会の劣化コピーだっていうの本当だね。

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