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親鸞会教義の相対化・29

清森義行様


 引き続き『会報』に検討を加えて、親鸞会教義の相対化を行いたいと思っておりますが、

 その前に、

私の白道・3(投稿1)http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-79.html

を読まれた私の友人(親鸞会教義の相対化27で投稿された方)が、以下のような感想をくださったので、それに対する私のコメントを紹介させて頂きます。


【友人の感想】
「私の白道」と言うのを読んで、「ひどい・・・」と思ってしまいました。
 30年間求め続けて、癌の病床で「わからないー!!」と号泣されたというおじいさん・・・。

 それでも、他の投稿のコメントには「親●会で幸せになった人もいる」とかなんとか書いてるのを見て、なんだろう、これは・・・?
と、こちらの方が思考停止しそうでしたよ。

 このおじいさんのような、お気の毒な人を出しちゃあいかんだろ、と思うのですが。人を不幸にする宗教などあっていいものか、と思います。
 なんでこんなことになっちゃったの?と掘り下げて考えなきゃいけないのに。

 神や仏を感じる霊的な体験は、努力の成果として得られるものではありませんから、それをあたかも努力すれば得られるかのような「法話」がされ、また、得られないのは努力不足のような「法話」がされてるのじゃないでしょうか。
 それ、アカンと思います。

 癌のおじいさん、かわいそすぎです。
 病苦と間違った指導による苦しみを、死の床で味わい続けたとは。


【私のコメント】

 全く同感です。
 私は断言します。親鸞会の方が何を言おうと、高森先生が何を言おうと、あのおじいさんは間違いなく極楽浄土に往生しています。
 それは経文に明らかだし、法然上人の言葉に照らしても間違いありません。
 そのことを、法然上人の言葉に基づきながら証明していきたいと思います。

§1信心の弱さを嘆く人へ

 問いていわく、往生を願わぬにはあらず、願うというともその心勇猛ならず。
 また念仏を卑しと思うにはあらず、行じながら、疎かにして明かし暮らしそうらえば、かかる身なれば、いかにもこの三心具したりと申すべきもなく。
 されば、この度(たび)の往生をば思い絶えそうろうべきにや。

 答えていわく、浄土を欣(ねが)えどもはげしからず、念仏すれども心のゆるなることを嘆くは往生のこころざしのなきにはあらず。
 こころざしのなき者はゆるなるを嘆かず、はげしからぬをも悲しまず。
 急ぐ道には足の遅きを嘆く、急がざる道にはこれを嘆かざるがごとし。
 また好めば、おのずから発心すと申す事もあれば、漸漸(ぜんぜん)に増進して必ず往生すべし。

 日ごろ十悪五逆を造れる者も臨終に初めて善知識に遇いて往生する事あり。
 いわんや往生を願い念仏を申して我が心はげしからぬことを嘆かん人をば仏も哀れみ菩薩も護りて、障を除き知識に遇いて往生を得べきなり。
『十二箇条問答』浄土宗聖典vol.4.p.444.


 願生心や信心が弱いことを嘆くのは、信心を強く持たなければという思いがあるからこそであって、その思いがなければ、嘆くことさえないのであるから、急がないときは、足の遅いことを全く気にならないようなものである。
だからこそ、信心が弱いと嘆いているのは、そこに信心を持とうという気持ち、つまり信心の芽生えがあるからである。

 法然上人はそう仰って、あのおじいさんのように、「念仏すれども心のゆるなる(弱い)」自分自身を嘆いている方に、自分自身の信心の弱さを嘆き、自分が往生できるかどうかを不安に思い、精一杯お念仏に励み、信心決定のために精一杯努力するならば、必ず往生することはできるので、往生を諦める必要がないと仰っています。

 だから、極楽浄土往生したいと思い、阿弥陀仏の本願をたのみ、念仏申した人が、極楽浄土に往生しないことは絶対にありません。

そして、

>>>
 私はとっさに両手を握って「念仏称えましょう」と言った。仏法を聞き始めて数十年、私は初めて人に念仏を勧めたのだ。

 Tさんは驚いたように「念仏称えて助かるですか、いいんですか」と聞いてきた。
 親鸞会で信前の念仏は助からん、本願寺は念仏称えて死んだら極楽、死んだら仏と教えを捻じ曲げていると、30数年聞かされてきたTさんは始め、躊躇されたが、私はかまわず念仏を称え出した。

 3分ーー5分ーー念仏と共に何の涙か分からないが止まらない。
 一緒に泣きながら念仏を称えた。
>>>

とあるように、おじいさんは念仏申すことを奨めてくれる善知識である元親鸞会講師部さんに出会い、阿弥陀仏の本願をたのみ、念仏申し極楽浄土に往生されたのです。


§2来迎→正念

 このように言うと、「平生に信心決定しなければ、往生できない」という方がいるでしょうから、この問題を『称讃浄土経』を論拠に解決されている、法然上人の言葉を紹介しておきたいと思います。


 また初めより、仏の本願に信を発させおわしましてそうらいし御心の程、見まいらせそうろうに、なにしにかは往生は疑い思し召しそうろうべき。
経に説かれてそうろうごとく、いまだ往生の道を知らぬ人にとりての事にてそうろう。

 もとより、よくよく聞こし召ししたためて、その上御念仏功、積もりたる事にてそうらわんには、必ずまた臨終の善知識に遇わせおわしまさずとも、往生は一定させおわしますべき事にてこそそうらえ。

 なかなか、あらぬ様なる人は悪しくそうろうなん。ただいかならん人にても尼女房なりとも、常に御前にそうらわん人に念仏申させて聞かせおわしまして、御心一つを強く思し召して、ただなかなか一向に凡夫の善知識を思い召し捨てて、仏を善知識にたのみまいらせさせたまうべくそうろう。

 もとより仏の来迎は、臨終正念のためにてそうろうなり。

 それを人のみな臨終正念にて念仏申したるに、仏は迎えたまうとのみ心得てそうろうは、仏の願を信ぜず、経の文を信ぜぬにてそうろうなり。

『称讃浄土経』には、「慈悲をもて加えたすけて心をして乱らしめたまわず」と説かれてそうろうなり。

 ただの時によくよく申し置きたる念仏によりて仏は来迎したまう時に、正念には住すと申すべきにてそうろうなり。

 誰も仏をたのむ心は少なくして由なき凡夫の善知識をたのみ、前の念仏をば空しく思いなして、臨終正念をのみ祈る事どもにてそうろうが、ゆゆしきひがいんの事にてそうろうなり。

 これをよくよく御心得て、常に御目をふさぎ掌を合わせて御心を鎮めて思し召すべきそうろう。

 願わくは阿弥陀仏本願あやまたず、臨終の時、必ず我が前に現じて慈悲をもて加えたすけて、正念に住せしめたまえと御心にも思し召して、口にも申させたまうべくそうろう。
 これに過ぎたる事そうろうまじ。心弱く思し召す事のそうろうまじきなり。
『正如房へ遣わす御文』浄土宗聖典pp.428-429


 往生するための道を知り、阿弥陀仏をたのみ念仏を称えていたらならば、阿弥陀様が臨終の時に来迎して、正念に住させてくださると仰っております。

 正念に住しているから、阿弥陀様の来迎があるのではなく、阿弥陀様が来迎するから正念に住することができると仰っています。

「正念に住すること」=信心決定ですから、たとえ信心決定に至らなくても、阿弥陀仏の本願をたのみ、三心具足の念仏を心がけて、お念仏を申していたならば、それが信前の念仏であっても、阿弥陀様が来迎してくださり、「慈悲をもて加えたすけて心をして乱らしめたまわず」
 正念に住することができ、信心決定の後、極楽浄土に往生できるのです。


つまり浄土門には、

【信前の念仏】→【信心決定】→【信後の念仏】→【往生】

とだけでなく、

【信前の念仏】→【来迎】→【正念=信心決定】→(【信後の念仏】→)【往生】

という往生のためのプロセスもあるのです。


§3称名念仏は信後報謝に限らない

 さらに信前に念仏申すことが、信心決定・獲信のために資することを証明する、法然上人の言葉を挙げておきたいと思います。

(1)
 また念仏すれども心の猛利ならざる事は末世の凡夫のなれる癖なり。
 その心の内にまた弥陀を憑(たの)む心のなきにしもあらず。
 譬えば主君の恩を重くする心はあれども、宮仕する時いささか物憂き事のあるがごとし。
 物憂しといえども恩を知る心のなきにはあらざるがごとし。
念仏にだにも猛利ならずば、いずれの行にか勇利ならん。
 いずれも猛利ならざれば、なれども一生空しく過ぎば、その終わりいかん。
 たとい猛利ならざるに似たれども、これを修せんと思う心あるは、こころざしの験(しるし)なるべし。
「好めばおのずから発心す」という事あり。功を積み徳を累ぬれば時々、猛利の心も出で来るなり。
 始めより、その心なければとて空しく過ぎば、生涯徒(いたずら)に暮れなん事、後悔先に立つべからず。
『念仏往生義』浄土宗聖典vol.4.pp.524-525

 この言葉は、「念仏すれども心の猛利ならざる人」で、心の内に「弥陀を憑(たの)む心」の【なきにしもあらず】という人に対して、
「功を積み徳を累ぬれば時々猛利の心も出で来るなり」と、いずれの行よりも優れた功徳のある「念仏」を勧めている言葉です。


(2)
 問うていわく、かようの愚痴の身には聖教をも見ず悪縁のみ多し。
 いかなる方法をもてか我が心をも護り信心をも催すべきや。

 答えていわく、その様一つにあらず。
 あるいは人の苦に遇うを見て三途の苦を思いやれ。
 あるいは人の死ぬるを見て無常の理を解れ。
 あるいは常に念仏してその心を励ませ。
 あるいは常に善き友に遇いて心を恥しめられよ。
 人の心は多く悪縁によりて悪しき心の起るなり。
 されば悪縁をば去り、善縁には近づけなりといえり。
 これらの方法一品ならず。時に随いて計らうべし。
『十二箇条問答』浄土宗聖典vol.4.pp.445-446

「我が心をも護り信心をも催す」ために、
1)人が苦しんでいる姿を見て、他人事と思わず、現世や来世で自らがやがて苦しむかもしれないこととして受けとめていく。
2)人が亡くなっていくのを見て、他人事と思わず、無常の空しさや恐ろしさと真正面から向き合って、後生の一大事の解決に取り組むきっかけとしていく。
3)常に念仏をお称えして、阿弥陀仏との関係を深めて、自らの心を勵ましていく。
4)善い法の友を持ち、互いに勵ましあいながら、その人たちに負けないように、その人たちの友として恥ずかしくないように、精一杯努力していく。
普段からこれを一つ一つ心がけていくことが、大切であると法然上人は仰っておられます。
「常に念仏してその心を励ませ」と法然上人が仰っておられます。


そして、親鸞聖人も信前の念仏を勧めておられることは、既に述べた通りです。
※親鸞会教義の相対化・2(質疑応答43)
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/category5-5.html

 往生を不定におぼしめさんひとは、まずわが身の往生をおぼしめして、御念仏そうろうべし。
(『親鸞聖人御消息』25)

という親鸞聖人の言葉は、「往生を不定におぼしめさん人」
(=信前の人)に対して、「まずわが身の往生をおぼしめして」とあるので、あくまでも「信後の念仏」のみを勧めた言葉である。
と解釈することも不可能ではないとは思いますが、

 信心のひとにおとらじと疑心自力の行者も如来大悲の恩をしり称名念仏はげむべし
(『正像末和讃』66)

という親鸞聖人の言葉は、
「往生を不定におぼしめさん人」=「疑心自力の行者」であっても、「わが身の往生、一定とおぼしめさんひと」=「信心の人」におとらないように、「如来大悲の恩をしり称名念仏はげむべし」と仰っておられる言葉ですので、親鸞聖人が信前の人に、「称名念仏はげむべし」と勧めておられることは明かです。


 従って私は、以下の高森先生の教えは、法然上人・親鸞聖人の教えに反するものだと思っています。

真宗の教義の骨格は、「信心正因、称名報恩」であり、信心一つで助かるのであって、称名念仏は、すべて信後報謝に限るからです。
(『こんなことが知りたい』1p.126-127)


§4「往生できない」と言う「退縁悪知識」

 往生せさせおわしますまじき様にのみ、申し聞かせまいらする人々の、そうらうらんこそ、返す返す、浅ましく心苦しく候へ。
 如何なる智者、めでたき人々、仰せられるるとも、それにな驚かせおわしまし候うぞ。
 各々の道には、めでたく貴き人なりとも、解あらず行異なる人の申し候うことは、往生浄土のためには、なかなかゆゆしき退縁悪知識とも申しぬべき事どもにて候う。
 ただ凡夫の計らいをば聞き容させおわしまさで、一筋に仏の御誓いをたのみ参らせおわしますべく候。
『正如房へ遣わす御文』浄土宗聖典pp.426-427

(訳)
「往生ができないだろう」というようなことばかり、申し聞かせる人びとのあるのは、まことに意外なことで、気の毒なことであると思う。
 どんな智慧ある人や、ご立派な人々が仰っても、それに驚かされてはならない。
 それぞれの仏道において立派で尊い人であっても、その領解や修行の異なる人の申されることは、往生浄土のためには、かえって大変な退転の縁ともなり、悪知識とも言うことになる。
 ただ凡夫のはからいを聞き入れないで、一すじに阿弥陀仏の誓いをたのむべきである。

 法然上人の言葉です。
 信前の念仏を勧めず、おじいさんに「往生できない」と思わせるような教えを説くような、法然上人や親鸞聖人の教えから見て、「解あらず行異なる人の申し候」である方は、大変な退転の縁ともなる「悪知識」です。

 一方、法然上人や親鸞聖人の教えの通りに信前の念仏を勧められた、元親鸞会講師部さんは、おじいさんにとってまぎれもない「善知識」なのです。


§5浄土門で教えを説くものの役目

 浄土門が目指す信心であるプラサーダ(浄信)は、各自が「どういう根拠があって自分は救われるのか?」を徹底的に問いまくって、「こんな自分では往生できないのではないか?」という、自分が「救われない可能性」(=疑情)を、考えて考えて考えまくって、それを全て叩きつぶした末に得られるものです。

 だから、教えを聞く人の「救われない可能性」(=疑情)を、経典や法然上人や親鸞聖人の言葉に基づいて、一個一個潰していくのが、浄土門で教えを説くものの役目であり、その役目を果たすべき者が、「凡夫のはからい」で、「往生できない」可能性を勝手に増やすことは、絶対に許されません。

 法然上人はその姿勢を貫かれた方です。親鸞聖人もそれを目指していかれました。
一方、親鸞会で教えられる教えは、どうなのでしょうか?


 阿弥陀仏は不取正覚の言葉を成就して、現に彼の国にましませば、定めて命終の時は来迎し給はん。
 釈尊は善哉(よきかな)、我が教えに従いて、生死を離れると知見し給ひ、六方の諸佛は悦ばしき哉、我が證誠を信じて、不退の浄土に生ると悦び給ふらんと。
『一紙小消息』

(訳)
 阿弥陀仏は、
「この全ての誓願が実現しなければ私は仏にならない」とまで誓った誓願を実現して、いま現に、かの極楽浄土に仏として在(ましま)しているので、(誓願はすべて実現しているので阿弥陀仏の本願を信じて念仏申すならば、)この世で命を終えようとする時には、阿弥陀仏が必ず迎えに来てくださるであろう。
 釈尊は、
「私の『阿弥陀仏の本願を信じて念仏を申しなさい』という教えにしたがって、人々が生死を繰り返す輪廻を離れることは、なんと素晴らしいことであろうか!」
と阿弥陀仏の本願を信じて念仏申す人をご覧になっておられるであろう。
 六方の諸仏は、「私達が『阿弥陀仏の本願を信じて専らに阿弥陀仏の名号を称えるものが、極楽浄土に往生するということは、全く間違いない真実である』と証明したことを信じて、一度往生したならば、決して迷いの世界に戻ることのない極楽浄土に、人々が生まれることは、なんと喜ばしいことであろうか!」
と喜んでおられることであろう。


 弥陀・釈迦・六方諸仏、全宇宙のあらゆる仏達が、この私が救われることを願い、私が本願を信じ念仏申すことを願い、勧め、証明し、見守ってくれていることを、法然上人は、力強く私達に伝えてくださっています。


 もし仏像を造ることや堂塔を建立することを、極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、お金のない貧しい者は、きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
 しかし現実には、裕福な人は少なく、貧しい人は甚だ多い。

 もし智慧にすぐれ才能に溢れていることを、極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、愚かで智慧のない人は、きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
 しかし現実には、智慧のある人は少なく、愚かな人は甚だ多い。

 もしお経に書かれた教えを、沢山見たり聞いたりすることを、極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、少ししか見たり聞いたりしていない人は、きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
 しかし現実には、沢山聞いた人は少なく、少ししか聞いていない人は甚だ多い。

 もし戒や律をきちんと守ることを、極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、戒を破ってしまったり、もともと戒のない人は、きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
 しかし現実には、戒を守れる人は少なく、戒を破ってしまう人は甚だ多い。

 この他の念仏以外の諸行に関しても、これに準じて知るべきである。
 以上のことから、これらの念仏以外の諸行をすることを、極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、往生できる人は少なく、往生できない人は多いだろう。

 だからこそ、阿弥陀仏は過去において法蔵比丘であった時に、平等の慈悲にうながされて、あまねく全ての人々を救うために、仏像を造り、堂塔を建立する等の念仏以外の諸行を、極楽浄土に往生するための本願にせずに、ただ、「南無阿弥陀仏」とお念仏申す一行だけを本願とされたのである。
(『選択集』第三章私訳)


 私は、この言葉を読ませて頂く度に、法然上人がお示しくださった、仏の慈悲の大きさと有り難さに涙が出てきます。


 法然上人を生涯かけて目指した親鸞聖人・・。
 親鸞会は、その方のお名前を冠する団体ですが、法然上人の御心やその御心を受け取っていかれた親鸞聖人の御心は、親鸞会にどこまで伝わっているのでしょうか・・。

 法然上人や親鸞聖人が何を伝えようとされたのか、それを一人一人が自分で資料にあたって検討し、自分の頭を使って考えていく時がきているのではないかと思います。



追記

 私はこれまで親鸞会教義を批判的に検討することによって相対化してきましたが、ただ単に切り捨てるのではなく、一生懸命がんばっているところは認め、協力できることは協力する「批判的同伴者」になろうと思ってきました。

 しかし、私の投稿に対するコメントを読ませて頂いて、親鸞会における融通のきかなさと誤った情勢判断、上意下達の硬直したシステムと排他性、独善性と自己批判の欠如、そして思考停止の弊害は私の想像以上であることがわかりました。

 老婆心で申し上げておきますが、今後これらの要素を本当に意識的に批判して除いていかないと、親鸞会の未来はないのではないかと思います。

 ある方が仰っていたのですが、自分が一番正しいとか最高だと思った瞬間に、人間は堕落しはじめますし、何かを絶対と思って、自分の思考を停止させてまで従うべきとした瞬間にも、人間の堕落は、はじまります。

 そろそろ、本気で考えていかないといけない時がきているのではないかと思います。

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COMMENTS

>自分が一番正しい
清森さんは自分の事とは思わないのでしょうか?

No title

清森さんは、
・分からないことは「分からない」と答える
・自分が誤っていることがわかれば改める
というスタンスですよ。

このブログは一貫してこのスタンスが貫かれています。

No title

若い者でも浄土真宗の家が多いのに、何が教えてあるのか聞けばいいと思って色々、探していました。資料は色々な場所で探しました。ですが、浄土真宗親鸞会は、どの人の話も、どこか変でいやです。その意味はやっぱり、以下の通りだと思いました。まとめるのが下手なので、使わせてもらいました。ふらっと行こうとしても、警備員がにらんでいますし・・・別をあたろうと思いました。

親鸞会における融通のきかなさと誤った情勢判断、上意下達の硬直したシステムと排他性、独善性と自己批判の欠如、そして思考停止の弊害は私の想像以上であることがわかりました。

 老婆心で申し上げておきますが、今後これらの要素を本当に意識的に批判して除いていかないと、親鸞会の未来はないのではないかと思います。

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