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親鸞会教義の相対化・30

清森義行様


 続いて、私の投稿に対するコメントしてくださった方に対して、反証ならびに補足説明等を行っておきたいと思います。


【親鸞会教義の相対化・26】
http://kiyomori.mitekaite.com/?art_id=100&v=1


>>Nobody2008-04-0513:27:05さん

>これは私あてではないが真宗の同行として納得できない。

 私の言葉足らずで、納得していだけなかったのではないかと思います。
 若干でありますが、補足説明をさせて頂きます。


>親鸞会は(一切衆生)必墮無間だけしか言わんのでおかしいのです。
>必墮無間と叱りつける人が仏弟子ではないとは私は思わない。
>(「一切衆生必墮無間」という言葉や概念はおかしいでしょう。)

Nobodyさんの仰りたいこと、よくわかっているつもりです。

 創造主である神の、絶対的な「神の律法」が人間の倫理を支えている、キリスト教などを代表するセム系一神教に対して、仏教では、「善因楽果・悪因苦果」「自業自得」の業思想=「因果の道理」が人間の倫理を支えているわけですから、人間のどのような行為が原因になって、どのような結果を受けることになるのか、それを説かなければ、仏弟子は倫理を説くことができないことになります。


そのために、仏教では古来より、

★過去世でどのような行為をした人が、現世でどのような果報を受けたのか?
★現世でどのような行為をした人が、来世でどのような果報を受けるのか?

 これを、釈尊が仏智でもってご覧になったことをお話しになった話を経典や律典から抜粋して、業報の実例集、業報説話集と言える、“アヴァダーナ文献”というものが編纂されたのです。
 これに基づいて仏弟子逹は、釈尊の言葉に基づき、どのような業因によって、いかなる果報を受けるかを話していったのです。

したがってNobodyさんの以下の言葉は、

>理解した上で、他の人に必墮無間と叱りつけることが
>あってもよいのではないのかな。

正確には、

==========================
仏弟子は、三明六神通を獲得した仏の言葉に基づいて、
必墮無間の人を「必墮無間」と叱りつけなければならない。
==========================

ということになると思います。

 蓮如上人に関しては、恐らく上記の範囲内での発言であり、「一切衆生必墮無間」という経典にない言葉を捏造したわけではありませんし、kkhate(=kkk)さんのように、「私の後生は必定地獄らしい」という自分の問題を、根拠もなく「全ての人」に一方的に当てはめ、「そうだろうなあ」と仰っているわけではないので、仏弟子であると言えます。


 最後に、“アヴァダーナ文献”の代表的なものである“ディヴィヤ・アヴァダーナ”が、この度、世界で初めて全訳されましたので紹介させて頂きます。

平岡聡『ブッダが謎解く三世の物語』上下(大蔵出版)

 これなどを読んで頂いて、釈尊がお説きになった業報の実例に基づいて、必墮無間の人に対して「必墮無間」と叱りつけるならば、何の問題もありません。

 凡夫のはからいで、仏弟子にあるまじき行為をすることもなくなります。




>>清子さん

>>
私は、言語の構造上、意味を明確に確定できるサンスクリット文を読むことで、親鸞聖人の教えがサンスクリット文とも矛盾しない教えであることを示し、一方チューリップ企画の山田さんの説が、漢訳『無量寿経』からも親鸞聖人の言葉にも根拠のない説であることを提示しただけです。
>>

これが私の記述です。

===================================
>漢訳『無量寿経』からも親鸞聖人の言葉にも根拠のない説であることを提示しただけです。

この部分はどこのことを書いておられるのかわかりませんね。
親鸞聖人はサンスクリットを根拠にあげておられるわけではありませんので真宗の教えとしては論議の対象外でしょう。
「独自の考え」を言われるのは勝手ですけど。
===================================

 私の記述を変な部分で省略して、反論しやすい形に捏造して反論しても意味はありません。

>>
「若不生者」の「生」は当益だけ、というのは非常に珍しい説だと思います。
成就文にないとすれば、本願は成就してないわけですが、
当益を誓われた部分は成就してないということでしょうか?
>>

本願文で説かれていること・・極楽浄土への往生=所謂「体失往生」
本願成就文で説かれていること・・現世での不退転=所謂「不体失往生」

が説かれていることは、私も既に述べております。


 今問題となっているのは、「若不生者」の「生」を、「信楽に生まれる」と解釈する説が、漢訳『無量寿経』からも、サンスクリット文からも導き出されないものであり、もちろん、親鸞聖人の言葉からも導き出されない「独自の解釈」であるということです。

 勝手に、論点をスライドしてもらっては困りますね。
 これが、貴方(方?)のやり方なのでしょうか?(苦笑)




>>Nobody2008-04-0508:15:21さん
>>Nobody2008-04-0505:47:35さん

>蛇足
>おかどちがい

 私はチューリップ企画の山田さんに向かって言ったつもりだったのですが、ちょっと過敏に反応しすぎではありませんか?
 私は貴方に向けて言ってません。

 それから、貴方が証空上人に関してあまりにも知らないまま、親鸞聖人の専売特許でもあるかのような発言をしていたので、アドバイスさせて頂いたのですが、このようなことを言うとは・・。


>くだらない宗我見や宗派根性をすて、
>自分のつくりあげた幻の世界の正義感でつくりあげた敵や
>悪と戦おうとせず、正確に情報を検討してください。

 私は貴方に関する情報を検討に加える程持っていませんし、貴方の情報を収集するような能力は、持ち合わせていませんよ(苦笑)。


>真宗では「平生の時、照しはじめて」のその時が一念で
>真心徹到した時。
>真宗では阿弥陀仏の光明に摂取の光明と調熟の光明が
>あるといわれる。
>浄土宗ではどうか、またどこで分けますか。
>真宗では一念で分かれます。

>こういう信仰上の話が重要だと言っている。
>どうも理解なされなかったようだ。

 なるほど。論点スライドをしようとしていたのですね。了解いたしました。

 貴方の論点スライドにお付き合いして、以下のようにまとめておきましょう。

A『念佛往生要義抄』の記述から、法然上人に関して以下のことが言える。

1)信前(光明に摂取される前)と信後(光明に摂取された後)の区別をしていた。
2)「往生の心まことにて、わが身を疑う事なくて、来迎をまつ人=三心具足の念仏申す人かどうかで、信前・信後を区別していた。

B『定散料簡義』の記述から、証空上人に関して以下のことが言える。

1)現世における救いである「即便往生」(=不体失往生?)を説いていた。
2)「即便往生」は、三心が発ることによって起きる。

 貴方が、私の提示した資料をまともに読んでいないことは凄くよくわかりました。
 次に論点スライドする時は、もう少し私の挙げた資料を読んでからにしてください。




>>Nobody2008-04-0507:47:03さん

>真宗の者で「それは証空上人が親鸞聖人から学ばれたものだろ」という人は我田引水がすぎよう。
>口伝抄ではこう、西山派ではこう、と文献的なものについてはそれでよいと思う。
>信仰上の話こそが重要なので。

>『定散料簡義』以前に、そもそも『口伝抄』には
>「善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり」とあるわけで
>田中氏も指摘しているようにちょっとおかしい。


 同感です。
 誤りを指摘されても居直ったり逆ギレしたりするような不誠実な態度は、仏教者として問題だと思いますし、見ていて気持ちの良いものではありませんよね。



>>売名さん

>だったら「清森問答」の名前やめてください。

 清森さんが、貴方にこのようなことを言われる筋合いはありません。
 私は、清森さんの要請により親鸞会教義を相対化させて頂いています。


>所詮売名ブログです。ここは。

 売名って・・。
 清森さんがこのブログを立ち上げ、親鸞会を相対化したり、問題点を指摘して矢面に立つことは、凄い大変なことです。

 それに私が仏教学や法然教学という「外の目」から、親鸞会を相対化することは、清森さんにとっては、二十五年間命がけで取り組んできた親鸞会のパラダイムを破壊する行為です。
 私にとっては、日頃行っている文献学に基づく比較研究と変わりませんが、清森さんにとっては、これまで真剣に向き合ってきたことだけに、想像を絶するぐらい辛くて勇気のいることであると思います。

 そしてそれは、既存の教団を批判して新しく一からパラダイムを作っていった、高森先生よりも辛く苦しい道であって、遥かに精神力や勇気のいることだと思います。

 思考停止状態のまま現状に甘んじ、何等自己批判や状況の改善を行わないような人に、清森さんを批判する資格はありません。



【親鸞会教義の相対化・24】
http://kiyomori.mitekaite.com/?art_id=98&v=1

>>ひまわりさん

>合点だけで喜んでいる学者さんには、到底分らない苦しみです。
>頭の理解だけで腹底が、ちっとも見えていない人には、いくら言っておわからない苦しみです。
>信仰が、学者さんより進んでいればこその悩みとお見受けします。

「学者さん」がどなたを指すのかはわかりませんが、貴方は自分と同じ思考回路を持っているかどうかで、「学者さん」の信心が貴方やkkhate(=kkk)さんより「進んでいない」と断定するのでしょうか?

ちなみに法然上人は、

人の心は外に現るる事なければその邪正定難しといえども、『経』には三心を具して往生すと見へてそうろうめり。
この心を具せざるが故に念仏すれども往生を得ざるなり。
(中略)
この心の発りたる事は我が身に知るべし。人は知るべからず。
『十二箇条の問答』の第六問答、浄土宗聖典4巻p.444

と仰っておられます。


往生のために必要な信心は三心ですが、人の心は外に現れるものではなく、この三心が具わっているかどうかは、本人だけがわかることであって第三者にはわからない。

というのが、法然上人の教えられるところであります。

 貴方が、思考停止の有無や、思考停止に至らないことを嘆くかどうかを基準に、「学者さん」の信心が貴方やkkhate(=kkk)さんより「進んでいない」と断定するのは勝手ですが、それは、法然上人の言葉に反することになりますね。


ちなみに私は、

●本人がプラサーダ(浄らかな信)を伴った心を起こしたかどうか?
=本人が三心を具足したことを自覚したかどうか?

によってしか、信心を判定することはできないと思っています。

 一方「思考停止しているかどうか?」は、その人の言動から、ある程度推測することが可能なのではないかと思います。


===================================
※参考 思考停止とは(はてなダイアリー)
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%D7%B9%CD%C4%E4%BB%DF

【意味】
 考えるのをやめること。あるいは、あることに対する判断を放棄して、既成の判断を無批判に受け入れること。

「短絡的な反応」「脊髄反射」「固定観念に基づく判断の枠組みを超えていない」「状況の変化にもかかわらず、以前の方針をそのまま当てはめる」状態を指し、議論において極めて批判的に用いられる。

【使われる場面】
 基本的に、きちんと論証する手間を省いて「自分は正しく、相手は間違っている」ということを簡潔に訴えるために使われる手抜きのための用語。「相手の異論は絶対、間違いであるのに対して、自分は絶対、正論である。つまり自分や相手が、一般常識と世間から見て論理的で無く矛盾した発言をしているのに、ただ感情的に正論と、物事をきちんと判断できない人達を指す時に使用する」
 簡単に言えば「ダメ。ゼッタイ」「絶対、儲かる」「絶対、崇拝しろ」と主張したい人が使う。

 また、左翼・右翼・保守・革新・革命・ネットワークビジネス・法令順守などの立場からの発言ばかりだ、とレッテルを貼って反対意見を馬鹿にするためにも駆使される。

 この言葉を使うこと自体、往々にして、相手の発言を読み取らずに「反~何とか」というレッテルを貼るだけに終わってしまう。すなわち「思考停止」という絶対主義の論理である。
===================================

 なお、kkhate(=kkk)さんご自身が、プラサーダ(浄らかな信)を得ていないと仰っておられたので、

>今後は、「思考停止」ではなく「プラサーダ(浄信)」を求めて頂きたいと思います。

とアドバイスさせて頂きました。



【親鸞会教義の相対化・27】
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-89.html

>試写会でアニメを見た元会員さん
>ポン太さん

 そうでしたか。
 親鸞会内部におられる方でも、私の友人と同じ感想の方がおられたんですね。
 大変失礼いたしました。申し訳ありません。

 自浄作用の働かない組織は、アニメ製作にも支障をきたすことがわかって参考になりました。
 ありがとうございました。
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COMMENTS

comment

>正確には、
>
>==========================
>仏弟子は、三明六神通を獲得した仏の言葉に基づいて、
>必墮無間の人を「必墮無間」と叱りつけなければならない。
>==========================
>
>ということになると思います。


そういうことなら首肯します。
親鸞会では生れたばかりの赤ん坊まで五逆・謗法(よって必墮無間)と言ったりするので
そういうのは『根拠のない「全ての人」への一方的な当てはめ』だろうと。

>最後に、“アヴァダーナ文献”の代表的なものである“ディヴィヤ・アヴァダーナ”が、
>この度、世界で初めて全訳されましたので紹介させて頂きます。
>
>平岡聡『ブッダが謎解く三世の物語』上下(大蔵出版)


どうも有難うございます。


>親鸞会教義の相対化・26
>どこかの誰かさんのような、くだらない宗我見や宗派根性は持っておりません。
>
>正確に情報を検討しようともせず、自分のつくりあげた幻の世界の正義感で、
>つくりあげた敵や悪と戦おうとするような、行為は慎みたいものです。
>
comment>くだらない宗我見や宗派根性をすて、
comment>自分のつくりあげた幻の世界の正義感でつくりあげた敵や
comment>悪と戦おうとせず、正確に情報を検討してください。


ちょっとわかりにくかったかもしれませんが、
私は上記のような言葉は受け取らないので言った御本人にお返しします、
ということです。「受け取らない」ということであって別に何か非難しているわけではありません。
受取拒否でお返ししたものをまた送られても No Thank You です。
そういう私のスタンスを示しておきました。


comment>浄土宗ではどうか、またどこで分けますか。
>
>貴方が、私の提示した資料をまともに読んでいないことは凄くよくわかりました。
>次に論点スライドする時は、もう少し私の挙げた資料を読んでからにしてください。


私が「どこで」と言ったのを信前・信後の内容の区別と誤解なされたようだ。

「摂取の益をかうぶる」か否かの区別が「三心具足の念仏申す」か否かでつくことは明らかなので、
法然上人の仰る「摂取の益は平生の時である」は「いつとはなしに三心具足の念仏申すようになる」
ということなのかどうかを論じたのです。
それは「真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす」(口伝鈔)、
「聖人の御流はたのむ一念のところ肝要なり」(蓮如上人御一代記聞書)といって
真宗では「一念」が極めて重要だからです。平生の一念で往生したのが不体失往生です。
信前・信後はこの「一念」でハッキリ分れます。「いつとはなしに」ではありません。
貴下の挙げた「念佛往生要義抄」には「平生の時、照しはじめて、最後まで捨て給わぬなり」とあり
「照しはじめ」た前・後でハッキリ区別がつくから、法然上人の仰ったのは「いつとはなしに」ではない。

証空上人の「三心発る時即便往生す、此時正しく仏も成仏し衆生も往生す」(定散料簡義)は
真宗の同行である私には『「三心発る時」が「一念」かな?』とも見えるのだが
浄土宗のことはしらないので、勝手な解釈をするのではなく、
「浄土宗ではどうか、またどこで分けますか」と質問したのです。

私はしりもせんのに「証空上人の教えは云々」などと言ったことがない。
いつも「親鸞聖人は・・・」「親鸞聖人は・・・」とばかり言うから
何か「親鸞聖人の専売特許だ」と言ってるように聞こえるのかもしれないが、
真宗の同行が「親鸞聖人は云々」と言うのはあたりまえで、
勉強したことがない浄土宗のことを私はあれこれ勝手に言わないようにしているだけですよ。

補足になれば幸いです

とんでもない。よくぞ言ってくださったと感謝しております。

親鸞会側からはアニメの内容には他の誰も関わることができず、高森氏が台本や動画のチェックをして制作会社側に修正内容の指示を何度も何度も出していたと聞いています。特に一般会員は完成するのを待つのみでしたから、でき上がったものを見て、もっと内部の人材を生かせばよかったのにと思ったものでした。

今思い返すと、その考えも甘かったですね。会員向け冊子のマンガを見てみたら見事に同種の異様さがあらわれていることに気づきました。

今後も「親鸞会教義の相対化」を楽しみにしています。

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