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質疑応答151

【質問】


 親鸞会教義の相対化72・73で紹介いただいた蓮如上人の言葉は、親鸞会ではあまり聞く機会のない言葉が多く、正直非常に驚きました。また、親鸞会で出している「百ヶ条」に含まれていないものも多かったと思います。

 私は「百ヶ条」を選ぶに際して、非常に恣意的な操作があったのではないかと思ってしまいます。恣意的な操作を行った文献で構築 された「蓮如上人の教え」は、もはや「蓮如上人の教え」ではなく、恣意的な操作を行った人物個人のドグマ以外の何物でもないと思います。

 これに関して、清森先生がどのように思っておられるかお聞かせください。



【回答】

 私は、「百ヶ条」に限らず、高森先生の教えの全てに、同様の問題が含まれているのではないかと思います。

 高森先生の教えには、「全人類は死んだら無間地獄だぞ。堕ちたくなければ、全てを犠牲にして富山に聞きに来なさい、人を誘いなさい、お金を出しなさい」という方向性があり、それを信じさせるに都合の良い言葉だけをピックアップして教えられているように感じます。

 しかし、仏教は、このような方向性で教えられていません。

 龍樹菩薩は十住論の調伏心品に、『説法の中で、地獄の諸苦を説く時、このような苦しみを早くすべて尽くして、浄土に往生することが、わが身の利益であると説く人がいるが、これは、魔が説教者に化けているのであって、魔事である』と書かれています。

 現に、経典のどこを探しても「一切衆生 必堕無間」とは教えられていませんし、親鸞聖人も仰っていません。仏教では、地獄に堕ちる恐怖を原動力として、仏法を求めるような説き方はされないのです。

 また、法施、財施の功徳は説かれていますが、地獄に堕ちたくないからするものではありません。方向性が全く違います。

 それが、私が最も疑問に思うことです。

質疑応答143

【質問】


 親鸞会では、『唯除五逆誹謗正法』を、『十方衆生』は『助かる縁手がかりの無い五逆謗法の者』だと見抜かれた、と教わりましたが、この解釈は正しいのでしょうか?



【回答】



 結論から言いますと、親鸞聖人は、そのように解釈されていません。


●善知識をおろかにおもい、師をそしる者をば、謗法の者と申すなり。親をそしる者をば、五逆の者と申すなり。同座をせざれと候なり。(末灯鈔)


 ここで親鸞聖人は、五逆罪・謗法罪の人と「同座するな」と仰っています。分かりやすく言えば、「近づくな」ということです。

 全人類が五逆謗法であれば、無人島で暮らすしかありません。

 五逆謗法の人と、そうでない人がいるから、五逆謗法の人に近づくなと仰っているのです。

 もちろん、「親を邪魔だと一度でも思ったら五逆罪」とか、「善知識の話が長かったとか短かったと思うのが謗法罪だ」という教えは、仏教にはありません。



 また、少々難しいですが、教行信証信巻には以下のように書かれています。


●四十八願の中のごとき、謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障極重なり。衆生もし造れば、直ちに阿鼻に入りて、歴劫周章して出ずべきに由なし。ただ如来、それこの二つの過を造らんを恐れて、方便して止めて「往生を得ず」と言えり、またこれ摂せざるにはあらざるなり。

(乃至)

 しかるに謗法の罪は未だ為らざれば、また止めて「もし謗法を起こさばすなわち生まるることを得じ」と言う。これは未造業について解するなり。もし造らば還りて摂して生を得しめん。

 彼に生を得といえども、華合して多劫を径ん。これらの罪人、華の内にある時、三種の障あり。一つには仏およびもろもろの聖衆を見ることを得じ、二つには正法を聴聞することを得じ、三つには歴事供養を得じと。これを除きて已外は、さらにもろもろの苦なけん。

『経』(悲華経)に云わく、「なお比丘の三禅の楽に入るがごときなり」と。知るべし。華の中にありて、多劫開けずといえども、阿鼻地獄の中にして、長時永劫にもろもろの苦痛を受けんに勝れざるべけんや。



 ここに説かれていることは、

・五逆謗法を造っていない人には、これから造らせないために「除く」と言われた。

・五逆謗法を造ってしまった人も、実際は浄土に往生できる。

・ただし、「仏・聖衆が見えない」「正法が聞けない」「仏を供養できない」という3つの障りがあり、本当の幸せにはなれないけれど、地獄に堕ちるよりマシである。


 以上の3点です。


 浄土がなぜ素晴らしいのかと言えば、「仏・聖衆が見える」「正法が聞ける」「仏を供養できる」からであり、それが出来ないのであれば、浄土の幸福は享受できません。

 ですから、五逆謗法でない方が良いに決まっていますが、五逆謗法を造っていても、信楽をえた人は、地獄に堕ちないのです。

 これも、信楽をえた人に、五逆謗法の人と、そうでない人の2種類あるという前提で説かれていますので、全人類が五逆謗法と解釈するのは無理があります。



 結論として、阿弥陀仏が「唯除五逆誹謗正法」と仰ったのは、五逆罪、謗法罪の恐ろしさを教えて、造らせないようにするためだ、ということになります。

 これを「十方衆生は五逆謗法だ」と教えてしまうと、五逆罪、謗法罪を造るのは仕方ないということになり、誓われた意味がなくなります。

 ですから、親鸞聖人の教えられたように解釈すべきだと思います。

質疑応答84

【質問】


高森先生は、阿弥陀仏は18願で十方衆生を「唯除逆謗の者」と見てとられていると教えて下さいますが、これは間違いだと思われますか?



【回答】


 阿弥陀仏の御心は、私には分かりません。

 前回も申し上げましたように、親鸞聖人は、逆謗の者でも救われると説かれています。

●四十八願の中のごとき、謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障極重なり。衆生もし造れば、直ちに阿鼻に入りて、歴劫周章して出ずべきに由なし。ただ如来、それこの二つの過を造らんを恐れて、方便して止めて「往生を得ず」と言えり、またこれ摂せざるにはあらざるなり。(教行信証信巻)

 ですから、阿弥陀仏が、十方衆生を逆謗と見てとられていると、味わうことは出来ると思います。(逆謗の者でも救われるということと、十方衆生が逆謗だということは違いますが。)



 実際は、十方衆生は逆謗なのかも知れませんが、「十方衆生は逆謗だから、必堕無間なのだよ」という説き方はされていないということです。

 善知識方は、あくまで、「煩悩具足だから、六道輪廻しなければならないのだ」という説き方をされています。

 蓮如上人が、例外的な説き方をされている所がありますが、その部分のみを強調して、無間地獄以外に生まれるのは間違いだと教えるのは、極めて偏った説き方になると思います。



 私も分からないところなのですが、

(1)十方衆生には、逆謗の者と、そうでない者がある。だから地獄に堕ちている衆生もあれば、畜生や人間に生まれている者もある。

(2)十方衆生は全て逆謗だが、阿弥陀仏のお力によって、畜生や人間に生まれている者もある。



(1)ならば、もちろん必堕無間ではありませんが、(2)だとしても、死後も阿弥陀仏のお力はかかり続けますので、やはり必堕無間ではないことになります。



 善知識方は、(1)の説き方をされているようです。

●しかるに謗法の罪は未だ為らざれば、また止めて「もし謗法を起こさばすなわち生まるることを得じ」と言う。これは未造業について解するなり。(教行信証信巻)

●「凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味」というは、凡夫も聖人も五逆も謗法も、ひとしく大海に回入すれば、もろもろのみずの、うみにいりて一味なるがごとし、といえるこころなり。(正信偈大意)



 最初から、五逆謗法と決め付けてしまっては、誰も善に励もうとする者がいないから、方便で仰っているのでしょうか?

 それとも、実際に、五逆謗法ではない人が、いるのでしょうか?

 私には、分かりません。



 蓮如上人が、「信心獲得せずば、無間地獄に堕在すべし」と仰っている部分がありますので、対機説法で、そのような説き方をする場合もあるのかも知れません。

 しかし、誰に対しても、そのように説けば良いわけではないと思います。

 まして、化土往生を説いたり、後生の一大事を六道輪廻と説くことを否定するのは、善知識方の説き方を否定することになるので、間違いだと思います。

質疑応答83

【質問】


 化土往生できる人がこの世にいるとするならば、本願文の「唯除五逆誹謗正法」のお言葉や大無量寿経の五悪段に説かれていることとの関係はどうなっているのか?



【回答】


 親鸞聖人が、「唯除五逆誹謗正法」を「全人類は五逆謗法だ」と解釈されたお言葉はありません。親鸞聖人は、「唯除五逆誹謗正法」について、以下のように解説されています。


●四十八願の中の如き、謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障、極重なり。衆生、もし造れば、直ちに阿鼻に入りて、歴劫周章して出ずべきに由なし。ただ如来、それこの二つの過を造らんを恐れて、方便して止めて「往生を得ず」と言えり、またこれ摂せざるには、あらざるなり。(教行信証信巻)

●「唯除五逆誹謗正法」というは、「唯除」というは、ただ除くという言葉なり、五逆の罪人を嫌い、誹謗の重き咎を知らせんとなり。この二つの罪の重きことを示して、十方一切の衆生みなもれず、往生すべしと知らせんとなり。(尊号真像銘文)



 阿弥陀仏は、逆謗の者も救って下さいますが、衆生が、五逆罪・謗法罪を造らないようにするために、唯除と誓われているのだ、と仰っています。

 逆謗の者でも救われるのだから、どんな人でも救われる、という根拠にはなりますが、だからといって、全人類が逆謗だという根拠にはなりません。

 逆謗でない人が、実際にいるのかどうか、私には分かりません。しかし、親鸞聖人が「全人類は逆謗である」という説き方をされていませんので、必堕無間の根拠には、ならないと思います。



 また、五悪段につきましても、必堕無間とは、どこにも説かれていません。すべて三悪道として教えられています。無間地獄ならば、寿命が短いということはありません。


●かるがゆえに自然の三途無量の苦悩あり。転た、その身を貿え、形を改め、道を易えて、受くるところの寿命、あるいは長く、あるいは短し。(大無量寿経)

●仏、弥勒に告げたまわく、「吾、汝等に語る。この世の五悪、勤苦かくのごとし。五痛、五焼、展転して相生ず。但し衆悪を作して善本を修せず。みな悉く自然に諸々の悪趣に入る。あるいはその今世に先ず殃病を被りて、死を求むるに得ず。生を求むるに得ず。罪悪の招くところ、衆に示して、これを見せしむ。身死して、行に随いて三悪道に入りて、苦毒無量なり。(大無量寿経)



 また、これは全人類が、三悪道に入る、という意味ではなく、悪人が行く世界だと教えられています。善をすれば、三悪道には行きませんので、善をしなさいと勧められています。


●善人は善を行じて、楽より楽に入り、明より明に入る。悪人は悪を行じて、苦より苦に入り、冥より冥に入る。(大無量寿経)

●人能く中に於て一心に意を制し、身を端し、念を正しくし、言行相副い、作す所、至誠にして、語る所、語のごとく、心口転ぜず、独り諸善を作し、衆悪を為さざれば、身独り度脱して、その福徳、度世・上天・泥オンの道を獲ん。これを五の大善とするなり。(大無量寿経)


 つまり、五悪段で説かれていることは、悪人は三悪道に堕ちる、ということであって、「一切衆生必堕無間」の根拠にはなりません。


質疑応答82

【質問】


 獲信した人を除いて後生の一大事(無間地獄に堕ちる)を抱えていない人はいるのか?
 (化土往生できる人は現代の世に存在するのか?)



【回答】


 まず、先に化土往生について、解説したいと思います。

 七高僧は言うまでもなく、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人ともに、化土往生を教えられています。


●仏智不思議をうたがいて 善本徳本たのむひと
 辺地懈慢にうまるれば 大慈大悲はえざりけり(正像末和讃)

●罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆえに 方便化土にとまるなり(正像末和讃)

●仏智不思議をうたがいて 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば 胎生のものとときたまう(正像末和讃)

●名号をとなうというとも、他力本願を信ぜざらんは、辺地にうまるべし。(末灯鈔)

●自力の称名は、臨終の所期、おもいのごとくならん定、辺地の往生なり。(口伝抄)

●「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」というは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり、また専修正行になりきわまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽に生ずべしとなり。これすなわち、専雑二修の浅深を判じたまえるこころなり。『讃』にいわく、「報の浄土の往生は、おおからずとぞ、あらわせる 化土にうまるる衆生をば、すくなからずとおしえたり」といえるこころなり。(正信偈大意)



 そこで疑問になるが、実際に化土往生している人が、いるのかということです。

 これについて、親鸞聖人は以下のように仰っています。



●報土の信者はおおからず 化土の行者はかずおおし
自力の菩提かなわねば 久遠劫より流転せり(正像末和讃)

●報の浄土の往生は おおからずとぞあらわせる
化土にうまるる衆生をば すくなからずとおしえたり(高僧和讃)



 私には、実際に化土往生している人がいるのかどうか、分かりません。しかし、親鸞聖人は、たくさんの人が、化土往生していると説かれています。

 三願転入の御文では、親鸞聖人は、双樹林下往生、難思往生を通って、十八願の世界に出られたと書かれています。双樹林下往生とは化土往生のことです。



●ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離れ、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入し、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓い、良に由あるかな。(教行信証化土巻)

●観経往生ともうすは、これみな方便化土の往生なり。これを双樹林下往生ともうすなり。(三経往生文類)



 親鸞聖人は、化土往生に永く止まっておられたと仰っています。

 もし、その時に親鸞聖人が、亡くなられていたら、本当に化土に往生されていたのかどうかは、私には分かりません。

 しかし、間違いなく言えることは、親鸞聖人は、化土往生の救いを真剣に求めておられたということです。

 これが全人類が通らねばならない道ならば、すべての人は、化土往生を求める過程を経なければ、十八願の世界には出られないことになります。

 そう考えますと、善知識方が、化土往生を教えられたのは、至極当然のことのように思います。



●釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発して あまねく諸有海を化したまふ。(教行信証化土巻)

※福徳蔵は十九願、化土往生の教え

●釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したまう。阿弥陀如来は、もと果遂の誓いを発して、諸有の群生海を悲引したまえり。(教行信証化土巻)

※功徳蔵は二十願、化土往生の教え

●それ濁世の道俗、速やかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願うべし。(教行信証化土巻)



 もしかしたら、私達は、どんなに頑張っても、化土往生は出来ないのかも知れません。

 仮に、そうだとしても、それを言ったら「お終い」な訳です。誰も十九願を実践しようとする人など、いなくなります。

 化土往生を説かれたのは方便なのですから、「我々を真実に近づけ、真実を体得させるに絶対必要なもの」なのです。



 私は、真面目に仏法を求めている人は、化土往生できる、と考えるべきだと思います。

 報土に生まれさせるお力を持つ阿弥陀仏が、化土に生まれさせる力さえ無いのでしょうか?

 釈尊、七高僧、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人が、口をそろえて、「化土に生まれられる」と仰っているのに、それに反発して、「どうせ化土には生まれられない」と言っていては、仏法にならないと思います。



 私は、参詣できなかったので分かりませんが、昨年の香港御法話で、高森先生が、「真面目に仏法を求めてゆけば、臨終に観音菩薩が説法して救って下さる」と仰った、と聞きました。

 それが事実だとすれば、まさに十九願、化土往生の教えです。

 これを聞かれて、親鸞学徒の皆さんは、やる気を出されて、仏法を実践しようと思われたのではないでしょうか?

 高森先生が、化土という言葉を使われずに、化土往生を説かれたのかも知れません。




 次に、必堕無間の一大事について、思うところを述べさせて頂きます。
 親鸞会が、「必堕無間」の根拠としているのは、以下の御文です。

●この信心を獲得せずは、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。(御文章)


 私は、この御文を一概に否定するつもりはありません。しかし、この一文をもって、「一切衆生 必堕無間」と結論づけて良いものか、という点については、疑問が残ります。



 まず、すでに書きましたように、化土往生を説かれなかった善知識はおられません。化土は、信心決定していない人が往く世界ですから、「信心を獲得せずは、無間地獄に堕在すべし」という教えと相反致します。

 蓮如上人御自身が、「正信偈大意」には、自力の人は化土に生まれ、化土に生まれる人が多いと説かれているのですから、どちらが真意か、分かりません。

 しかし、御文章はあくまでお手紙ですから、対機説法です。その機に応じて、必要があったから、そのように説かれたのかも知れません。誰に対しても、そのように説いて良いかは疑問が残ります。

 一方、「正信偈大意」は、親鸞聖人の御心を明らかにするために執筆された、事実上、唯一の御著書ですから、普遍性があると思います。

 いずれにしましても、「信心獲得せずば…」のみを採用し強調して、すべての善知識方が説かれた化土往生を説かないというのは、かなり偏った説き方ではないでしょうか?



 次に、化土にも往けない人は、無間地獄なのかという点ですが、親鸞聖人は、六道輪廻する、という説き方をされています。


●もしまた、この度、疑網に覆蔽せられなば、更りて、また曠劫を径歴せん。(教行信証総序)

●呼吸の頃、すなわちこれ来生なり。一度、人身を失いぬれば万劫にも復らず。(教行信証行巻)

●自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、常に没し、常に流転して、出離の縁あることなし、と深信す。(愚禿鈔)



 親鸞聖人は「必ず無間地獄に堕ちる」という説き方はされていませんので、親鸞聖人が仰っているように、「六道輪廻する」と理解した方が良いと思います。

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