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質疑応答125

【質問】


 今まで新入生勧誘、アニメ頒布、親への顕正、祖母をご法話へのお誘い、チラシ撒き、文化講座での話し込み等、それなりに仏法をお伝えする活動はしてきました。

 ですが、申し訳ないことですが、正直なところ誰にも言えませんでしたが、ほとんどは苦痛でした。仏法をお伝えするという人間ができる最高の善と教えられていたのに内心嫌でした。

 宗教をやっていると白い目で見られるのが嫌だという名誉欲や、断られたり、嫌な顔をされたりして、自分を否定されたりすることが苦痛の主な原因だと思います。

 そこで疑問ですが、苦しいと感じるということは悪因苦果の因果の道理からすると、悪をやっているということになるのでしょうか。
 それとも、行為自体は善であるけれど、因を業と考えますと、悪業の状態ですので、善をやったとしても苦しみという結果を受けるということでしょうか。

 苦しみという結果を受けているということは、善だと思っていても実は悪をやっているとお聞きしたことがあります。

 そうすると、いままで仏法をお伝えするという行為は悪だったということになるのでしょうか。
 それとも正しい仏法をお伝えしていなかったのが原因なのでしょうか。

 また、たとえ正しい仏法をお伝えしていても、苦しいと感じたならば、悪をやっていることになりやらなくてもいいということになるのでしょうか。

 名誉欲や非難に打ち勝ち、苦しくても仏法をお伝えすることは親鸞学徒の使命だと教えられてきましたし、そういう苦しい中、沢山の方がお伝えしてこられたからこそ自分が聞くことができたと考えると、苦しいからやらないというのは、甘い情けない自分勝手な考え方とも思います。

 親鸞会で今まで何が苦しかったかというと、肉体的・経済的というのもありましたが、よく考えてみたところ、とても誰にも言うことはできなかったですが、一番の苦しみは精神的な苦しみ、つまり仏法をお伝えすることが原因による苦痛でした。

 情けないと言ってしまえば、それで終わりですが、幸せになることが説かれているはずの仏法をお伝えすると逆に苦しむ結果になるのは、おかしいように思います。


 あらためて質問をまとめますと、

1、仏法をお伝えすることによって苦しむということは、人によっては悪をやっていることになってしまうのでしょうか。
  それとも、善であることには変わりはないが、その人の業によっては善をやっても苦しむという結果になってしまうということでしょうか。

2、もし苦しむという結果になるのならば、無理に今は仏法をお伝えしなくても良いというのが仏法の教えでしょうか。
  そうなると我利我利で仏法精神とは違うような気もします。

3、あるいは、苦しい中やっていくとやがて善果となって返ってくるということでしょうか。
  もっと言うと、苦しい中やるほど大きな善果となって返ってくるということでしょうか。


 親鸞会で活動してきて何がつらかったかと考えると、正直なところ、どうしてもこのことに行き着きます。
 お忙しいところ申し訳ありませんが、以上よろしくお願いします。



【回答】


 仏法をお伝えするとは、仏法を自ら実践し、他人も幸せにしてゆくことです。
 仏法を実践するとは、例えば以下のようなことです。

・嘘をつかない。
・相手に押し付けない。
・納得できないことはやらない。


 貴方が苦痛を感じたという活動の中で、嘘をついたり、相手に押し付けたり、納得できないことを嫌々やるようなことは無かったでしょうか?

 これらの行為は悪ですから、悪因苦果で苦痛を感じるのは当然のことです。
 もちろん、仏法の実践になりませんから、仏法をお伝えすることになりません。

 仏法を伝えるというのは、善ですから、当然、楽しいことです。

 私も、親鸞会を離れてから、嘘をつく必要もなくなり、目標もありませんから押し付ける必要もなく、自分の納得のいく活動しかしていませんから、本当に幸福です。


> 1、仏法をお伝えすることによって苦しむということは、人によっては悪をやっていることになってしまうのでしょうか。
>   それとも、善であることには変わりはないが、その人の業によっては善をやっても苦しむという結果に
>   なってしまうということでしょうか。

 仏法をお伝えするのは善です。嘘をついたり、押し付けたり、納得できないことを嫌々やるのは悪です。


> 2、もし苦しむという結果になるのならば、無理に今は仏法をお伝えしなくても良いというのが仏法の教えでしょうか。
>   そうなると我利我利で仏法精神とは違うような気もします。

 仏法をお伝えするのは善ですから、苦しむという結果にはなりません。


> 3、あるいは、苦しい中やっていくとやがて善果となって返ってくるということでしょうか。
>   もっと言うと、苦しい中やるほど大きな善果となって返ってくるということでしょうか。

 苦しい中やっていくと、やがて悪果となって返ってきます。善であれば肉体的・精神的に大変なことでも、苦痛とは感じません。

質疑応答116

【質問】


 親鸞会では、「方便」ということで、嘘をつくことも許容されてきたように思いますが、仏教的に「嘘も方便」という言葉は通用するのでしょうか。



【回答】


 仏教で、方便とはどういう意味か、正しく知らねばならないと思います。

●正直を「方」といふ。外己を「便」といふ。正直によるがゆゑに一切衆生を
憐愍する心を生ず。外己によるがゆゑに自身を供養し恭敬する心を遠離す。(浄土論註)


 正直でなければ方便にならないと書かれていますが、嘘をついて良いとはどこにも教えられていません。



●知りながらも偽りを言うようになれば、どんな悪事をも犯すようになる。悪いことをするから偽りを言わなければならないようになり、偽りを言うようになるから、平気で悪いことをするようになる。(釈尊)


 このように仏教では、嘘を厳しく戒めています。
 嘘を平気で言える人は、求道が全く進んでいない人です。仏教で、そのようなことを勧めるということはありえません。

「嘘も方便」というのは、世間で言われる言葉ですが、これを仏教に持ち込んではならないと思います。

質疑応答101

【質問】


質問です。

知人は「親鸞会が今日のように脱線したのは善導大師の
 
  『不得外現賢善精進之相内懐虚仮』

を読み間違ったのが大きい」言っていました。

すなわち、善導大師は、

  「カッコつけず、心の通り振る舞いなさい」

と教えられたのが、親鸞会では、

(1)外には賢善精進の相を現じなさい
   (外面は猛烈な善をしなさい)

(2)そして内は虚仮を懐いてはいけません
   (内面はキチンとしなさい)

になってしまった、と言うのです。

たしかに漢文では、「得ざれ」は文全体にかかっていますので、

(1)、(2)に分けることは不可能だと思いますが、この知人

の言うことは正しいのでしょうか。

一般的な解釈はどのようになっているのか教えて下さい。

また、清森様はこのことについてどのようにお考えでしょうか。


以上よろしくお願いします。



【回答】


『不得外現賢善精進之相内懐虚仮』という言葉についての解釈は、浄土宗と浄土真宗で異なります。

 文法的には、浄土宗の解釈の方が常識的な読み方ですが、親鸞聖人は、あえて別の読み方をされていますので、その両方を説明いたします。


 まず、浄土宗の読み方ですと、

「外に賢善精進之相を現じて内に虚仮を懐くことを得ざれ」となります。

 これは、「外」と「内」の不一致を戒められたお言葉です。

 外の姿だけ賢善精進の格好をして、内に虚仮を懐いていてはいけませんよ、ということです。

 この人は、内が虚仮ですから、外の「賢善精進」は格好だけです。だから「相を現じる」という表現を取られていると考えられます。

 ここで問題にされているのは、内の虚仮であって、結論としては「心を真実にしなさい」ということになります。

 このお言葉は、外は「賢善精進」の格好だけやっている人に対して言われているお言葉ですから、その人に「もっと賢善精進の格好をしなさい」と教えられるはずがありません。

 そんなことをすれば、内と外の不一致が、ますます大きくなります。あくまで、内の虚仮を戒め、心を真実にしなさいということです。

 なお、文法的に考えても、「外には賢善精進の相を現じなさい」という読み方は出来ません。この読み方は、とりあえず外を一生懸命やればよい、という誤解を招く、危険な解釈です。

 今の親鸞会の目標制度は、参詣者数、入会者数という、まさに形を問題にし、内の虚仮が殆ど問題にされていないように思います。

 善導大師のお言葉を、正しく読めば、このような弊害を防ぐことが出来たのではないかと思われてなりません。



 次に親鸞聖人の解釈ですが、聖人はこの善導大師のお言葉を、「外に賢善精進之相を現じることを得ざれ。内に虚仮を懐けばなり。」と読まれています。

 文法的には、このように読めないのですが、親鸞会のような誤りを防ぐために、このように読まれたのではないかと、拝察せずにおれません。

 これは、「外に賢善精進の格好をするな。内は虚仮なのだから」ということになります。意訳すれば、「カッコつけず、心の通り振る舞いなさい」とも読めるかも知れません。


 まず気をつけて頂きたいのは、「身業・口業の善をするな」という意味ではない、ということです。


●外儀のすがたは、ひとごとに 賢善精進現ぜしむ
 貪瞋邪義おおきゆえ 奸詐ももはし身にみてり(悲嘆述懐和讃)


 親鸞聖人は、賢善精進を現じている人を、悲嘆されています。貪瞋邪義が多く、奸詐が身に満ちている人が、身業口業の善に励んでいるとは考えられません。


●賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。 愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。(愚禿抄)


 賢者(仏様)は、内は賢であるが、外は愚かである。私は内は愚なのに、外は賢である、と仰っています。仏様でさえ、外に賢善精進の相を現じてはおられないようです。


 このようなことから、親鸞聖人は、「賢善精進之相を現じる」という言葉を、「身業口業の善に励む」という意味で使っておられないことが分かります。

 ですから、「内は虚仮ばかりなのに、外を取り繕って、賢善精進の格好をするな」という意味になります。



 ところが親鸞会では、これは信後のことを仰ったお言葉で、信前のことではない、とお聞きしたように記憶しています。

 これについては、具体的に、親鸞聖人がどのように教えられているか、根拠を示したいと思います。



 まず、親鸞聖人が、拝読を勧められていた「唯信抄」には、以下のように書かれています。


●その三心というは、ひとつには至誠心、これすなわち真実のこころなり。おおよそ、仏道にいるには、まずまことのこころをおこすべし。そのこころまことならずは、そのみちすすみがたし。
(乃至)
まことにふかく浄土をねがうこころなきを、人におうては、ふかくねがうよしをいい、内心にはふかく今生の名利に着しながら、外相にはよをいとうよしをもてなし、ほかには善心あり、とうときよしをあらわして、うちには不善のこころもあり、放逸のこころもあるなり。
(乃至)
善導の釈にいわく、「不得外現賢善精進之相 内懐虚仮」といえり。


 そして、この唯信抄を解説された「唯信抄文意」には、以下のように教えられています。


●『観経』の三心は、定散二機の心なり。定散二善を回して、『大経』の三信をえんとねがう方便の深心と至誠心としるべし。
(乃至)
「不得外現 賢善精進之相」というは、あらわに、かしこきすがた、善人のかたちを、あらわすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれとなり。そのゆえは、内懐虚仮なればなり。



 唯信抄では、「仏道に入るには、まず、まことのこころをおこすべし。」と教えられ、その「まことのこころ」=「至誠心」を起こすために、「不得外現賢善精進之相 内懐虚仮」と、教えられています。

 仏道のスタートですから、信後の世界のことではありません。

 さらに、その解説の「唯信抄文意」では、「『大経』の三信をえんとねがう方便の深心と至誠心」だと書かれています。

 ここに「方便の至誠心」とありますから、信前であることは明らかです。

 その至誠心の解説の中で、「かしこきすがた、善人のかたちを、あらわすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれ」と仰っているのですから、当然、信前の人に対して説かれた言葉、ということになります。



 私には、御報謝の額で表彰状をもらったり、活動の成果で講師部のランクが上がったりする、今の親鸞会のあり方を批判されたお言葉のように思えるのですが、如何でしょうか?

 そんなに、立派な求道者と思われることが大事なのでしょうか?

「立派な求道者と思われる必要は無い、心が大事だ」というのであれば、表彰状もランク分けも要らないはずです。

 そういうやり方で、仮に親鸞会の皆さんが頑張られたとしても、親鸞聖人は決して喜ばれないと思います。

質疑応答67

【質問】


 先日、M支部長に、退会したいと申し上げたところ、昨晩、夜中の1時頃に、支部長が他の学徒の方を7名つれて、うちに説得に来られました。その中には、90歳過ぎの学徒の方もおられ、こんな夜中に連れ回されて、本当に気の毒だと思いました。帰って欲しいと申し上げたのですが、結局、夜中の3時過ぎまでおられました。親鸞会を辞めるのは、こんなに大変なことなのかと、驚きました。

 その際、お仏壇用の正御本尊も返却するように言われました。最初は、お仏壇用の正御本尊は返却する必要は無いと言われたから求めたのですが、やはり返さなければならないのでしょうか?非常に高価なものでしたし、今後も勤行をしたいので、返却したくないのですが。



【回答】


 それは本当に大変でしたね。今年は、大変な目標が出ているそうですから、支部長の気持ちも、分からないではありません。

 ご質問については、親鸞聖人が以下のように仰っています。


●聖人の仰に曰く、「本尊・聖教を取返すこと、甚だ然るべからざることなり。」(口伝鈔)

●本尊・聖教は、衆生利益の方便なれば、親鸞が睦びをすてて、他の門室に入るというとも、私に自専すべからず。(口伝鈔)

●同行、知識に鉾楯のとき、あがむるところの本尊・聖教をうばいとりたてまつる、いわれなき事。(改邪鈔)

●念仏する同行、知識にあいしたがわずんば、その罰をこうぶるべきよしの起請文をかかしめて、数箇条の篇目をたてて連署と号する、いわれなき事。(乃至)次に、「本尊・聖教をうばいとりたてまつらん時、おしみ奉るべからざる」よしの事、またもって同前、さきに違すべからず。(改邪鈔)


 このように、親鸞聖人が教えられていますので、支部長が、退会する人に「正御本尊を返せ」と言われるなら、教えに反していることになります。

 しかし、これは親鸞会の規則ですし、お仏壇用の正御本尊も、最近、返却が義務づけられるよう規則が変わりました。

 ですから、支部長が、親鸞聖人の教えに反してでも、規則が大事だと言われるなら、お返しするしかないのではないでしょうか。

 私達の方でも、表具屋に注文して、親鸞聖人御真筆の六字名号本尊を作っております。

 もし、どうしても返せと言われるのであれば、こちらで用意してありますので、遠慮なくお申し出ください。

質疑応答18

【質問】


>このような間違った心がけを戒めるように教えてゆかねば
>ならないのですが、親鸞会では、厳しい目標を与え、
>出来なければ徹底的に問題にし、間違った心がけを
>奨励しているのが現状と思います。

これは、高森先生が「間違った心がけを奨励している」のではなく、先生のご教導を聞き誤った講師部員が会員さんに「間違った心がけを奨励している」ということだと理解して宜しいでしょうか?


【回答】

 局長や、昔で言えば本部長が、講師部員に、高い目標によって、「間違った心がけにならざる得ない環境」を作っていた、というのが正しいと思います。

「金集め、人集めの心でやれ」と指導されるはずがありません。達成不可能な目標を与えられ、成果が悪いと、徹底的に問題にされる。だから、必然的に「金集め、人集め」になってしまうと思います。

 繰り返しになりますが、聞法の喜びから伝えるなら、目標は要らないのです。目標を与えること自体が、「聞法の喜び」以外の心で活動せよ、と言っているのと同じなのです。

 少なくとも御説法や、講師部全体の講義で、「とにかく目標を達成せよ」というようなお話は無かったと思いますが、それだけの理由で、幹部講師が勝手にやっていると断定することも出来ません。

 これが高森先生の方針であるならば、改めて頂きたいですし、幹部講師の独断なら、論外というものだと思います。

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