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質疑応答182

【質問】


 『本願寺なぜ答えぬ』ではありませんが、親鸞聖人の教えに、善の勧めは有るのでしょうか?無いのでしょうか?



【回答】


 親鸞聖人は、「念仏」という最高無上の善を勧めておられます。しかし、貴方の質問は、「念仏以外の善」を勧めておられるかという意味だと思いますので、それに対して回答いたします。

 これは、有る、とも言えますし、無い、とも言えます。

 まず親鸞会の人が思っているような意味での善は、親鸞聖人は勧められていません。だから、“信心決定するために”法話に人を誘って来いとか、たくさん御報謝せよとか、そういうことは教えられていません。こういうことは、「雑行」と言われ、捨てよと教えられています。

 だから、親鸞会の人に分かりやすく言えば、「善の勧めは無い」と言えます。

 しかし、親鸞聖人は「三毒を慎むこと」と教えられています。たまに、「私達は煩悩具足なのだから、悪のやりたい放題で良いのだ」という人がいますが、これは間違いです。煩悩を断ち切ることは出来なくても、親鸞聖人の仰るように「慎む」ことはできます。
 煩悩を慎むことは、仏教でいう善に当たりますので、これは「善の勧め」と言えると思います。

質疑応答181

【質問】


 親鸞会では、善の出来ない自己が知らされるために、善に励まなければならないと勧められます。この考えは間違いでしょうか?



【回答】


 間違いです。

 まず第一に、善が出来ないことが知らされるために、善をせよなどという教えは、経典にも聖教にも、まったく見たことがありません。今まで誰も説かれたことのない、珍しき教えです。

 また、仮に、百歩譲ってその理論が正しいとしても、親鸞会には当てはまりません。

 浄土真宗で、「私達に善が出来ない」と言われるのは、正確には「私達には無漏善は出来ない」という意味です。
 仏教には有漏善と無漏善があり、私たちがやっている善は有漏善です。これは煩悩の混じった善ということで、この有漏善では仏になることは出来ません。だから、私たちは自力で仏になることは出来ないと言われるのです。

 親鸞会の理論で言えば、無漏善が出来ないことが知らされるためには、無漏善を勧めなければなりません。そうだとすれば、目標を与えたり、講師部賞や真実開顕賞などを設けて意欲をかき立てるなどというのは論外です。

 有漏善を勧めながら、無漏善が出来ない自分が知らされると言っているのですから、論理が破綻しています。まして、そうやって(親鸞会でいう)善ができないことが知らされたのが、機の深信だと思っているならお粗末というより他はありません。

 機の深信とは、阿弥陀仏の光明に照らされて、知らされた自己の姿です。最近は、比叡山の修行によって機の深信が知らされると説いていると聞きましたが、事実だとすれば本当に驚きです。

 いずれにしましても、「善ができないことが知らされるために、善をせよ」などと教えられた善知識がいるとは、聞いたことがありませんので、悪知識の教えだと思います。

質疑応答180

【質問】


 清森問答で、以下のように教えていただきましたが、親鸞聖人の教えは三願転入ですから、十九願の善として財施も勧められているのではないでしょうか。よろしくお願いします。


> また、親鸞会に対する「財施」を、信心決定と結びつけて教えられることも問題だと思います。親鸞聖人は、「信心決定のために、財施に励め」などとは、どこにも教えられていません。



【回答】


 結論から言いますと、親鸞会では十九願の善は勧められていません。親鸞聖人は、十八願に入るために十九願の善を実践せよとは仰っていないからです。

 十九願では、諸々の功徳を修めた者を、臨終に救う(化土往生させる)と誓われています。臨終の救い(化土往生)を求めて、善を修めることを十九願の善というのです。信心決定を求めて、善を修めることを十九願の善とは言いません。

 十八願では、信楽の者を必ず浄土往生させると誓われています。信楽になるのは聞即信の一念であって、そのために善を修めなければならないとは教えられていません。

 つまり、十九願と十八願では、まったく方向性が違うのです。親鸞会の教え方では、十九願を進んだ先に十八願があるように誤解させます。

 親鸞聖人の三願転入の御文も、十九願ではダメだった、二十願でもダメだった、十八願では救われた、ということであって、十九願を進んだ先に二十願があり、二十願を進んだ先に十八願がある、という意味ではありません。

 今の親鸞会は、十九願の理解も、十八願の理解も間違っています。

 信心決定を求めて善を修めるのは十九願だと思っているのも間違いならば、十八願の救いに遇うために善に励むのも間違いです。

 このように書くと、「親鸞会で、『善をすれば信心決定できる』などと言ったことは無い」と反論が来るでしょう。

 しかし、親鸞会の会員さんに、「何のために活動に頑張っているのか?」「何のために御報謝を出しているのか?」と尋ねたら、どう答えるでしょう。

 当然、「信心決定のため」と答えるでしょうね。講師部員でも同じだと思います。

 この現状が、何よりも親鸞会の間違いを物語っています。

質疑応答174

【質問】


 最近、親鸞会では、18願は「十方衆生を必ず信楽にしてみせる」という約束であり、当益の意味は全くない。「信楽の者を必ず浄土往生させる」という約束は11願である、と教えられています。
 ところが、前回の教学講義では、「易往而無人」のお言葉を出されて、信楽になれば往生は易いけど、信楽になる人が少ないから無人なのだと教えて頂きました。
 必ず信楽になれるのならば、信楽になる人が少ないというのは矛盾に聞こえますが、清森先生はどのようにお考えでしょうか。



【回答】


 結論から言えば、本願に対する解釈が間違っていると思います。

 浄土往生が11願の働きによって易いのであれば、信楽を獲るのも18願の働きによって易いはずです。

 信楽を獲ることが難しいから、信楽を獲させることに命を懸けられた、というならば、11願で浄土往生に命を懸けられたのは何故なのか?

 この程度のことは、多くの会員さんも気づいておられると思います。



 何回も紹介していますが、親鸞聖人は「若不生者」の「生」を、信楽をえた人が、浄土に生まれることだと解釈されています。


●「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。(尊号真像銘文)

●「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。(尊号真像銘文)

●「来迎」というは、「来」は浄土へきたらしむという。これすなわち若不生者のちかいをあらわす御のりなり。穢土をすてて、真実報土へきたらしむとなり。(唯信鈔文意)

質疑応答142

【質問】


「信楽にする力」は、12願でも18願でも、どちらでも解釈できるということでしょうか?



【回答】


 お聖教には、12願と教えられています。


●光明名号の因縁ということあり。弥陀如来四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきわなからん」とちかいたまえり。これすなわち念仏の衆生を摂取のためなり。かの願、すでに成就して、あまねく無碍のひかりをもって、十方微塵世界をてらしたまいて、衆生の煩悩悪業を長時にてらしまします。さればこのひかりの縁にあう衆生、ようやく無明の昏闇うすくなりて、宿善のたね萌すとき、まさしく報土にうまるべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。しかれば、名号執持すること、さらに自力にあらず、ひとえに光明にもよおさるるによりてなり。(執持鈔)



 ですから、「信楽にする力は何願か?」と尋ねられたら、12願と答えるのが筋だと思います。

 12願が18願に納まるという考え方をするならば、18願に含まれると言えないことはありませんが、あえて、そのような言い方をする必要はないと思います。

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