スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

質疑応答211

【質問】


 親鸞会では、「無理をしなければ、財施にならない」と教えられました、これは正しいのでしょうか?



【回答】


 親鸞会の教えは、仏教と正反対です。
「無理をしたら、財施にならない」というのが正しいです。

 仏教では、私達は執着の心によって苦しんでいると教えられています。ですから、自分のお金や財産に対する執着から離れ、相手の幸福のために出していくことが勧められています。これが財施です。


 では、どのようにすれば、執着から離れることができるでしょうか?
 仏教では、その答えは中道であると説かれています。

 分かりやすくいえば、不足しないよう、過剰にならないようにしていく、ということです。


 私達は、生活に必要なだけのお金や財産がないと、必死になって集めようとして、執着が強くなってしまいます。ですから、不足するのは良くありません。

 逆に、必要以上に持っているのも、執着を強くすると説かれています。このような人は、不安を埋め合わせるために、お金や財産を持とうとするのですが、多く持つほど不安はかえって強くなり、悪循環に陥ります。

 ですから、生活に必要な分は確保し、それ以上のものは貯め込まずに他人のために使っていくことが財施となります。


「無理をする」ということは、必要なお金や財産まで布施をしてしまう、ということになりますから、中道になりません。

「これだけ、お金を出したのだから助かるだろう。」とか、「こんなにお金を出したのに裏切られた!」などと、執着の元になりますので、かえって悪を造ることになります。

 龍樹菩薩も、いやいや布施をするのは「疲厭施」という悪であると教えられていますので、無理のない範囲で布施をすることが大切です。

投稿

面白い資料がありましたので投稿します。
蓮如上人も、親鸞聖人に倣って「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号を中心に下付されたようで、「無碍光流」という邪義を立てたと批判され、比叡山による本願寺破却につながったそうです。


>  表(一) 蓮如上人の授与した十字名号と絵像
>
> 長禄元(1457)~寛正 6(1465)→十字21・絵像 5
>
> 寛正7(1466)~文明 7(1475)→十字 1・絵像 5
>
> 文明8(1476)~文明18(1486)→十字 0・絵像19
>
> 長享元(1487)~明応 8(1499)→十字 3・絵像16
>
>  この表(一)に掲げた本尊の数は、現存する裏書の中で年時の明らかなものだけです。従って蓮如上人の授与した本尊の一部にしかすぎません。しかし、この数字からおおよその動向を察知することはできましょう。


(出典:仏教法話データベースポータルサイト



 驚くことに、晩年に絵像本尊の御下付が増えています。
「蓮如上人が生涯名号本尊のみを礼拝された」という親鸞会の説が、いかにデタラメか分かります。

質疑応答210

【質問】


 ブログ「浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い」では、親鸞会を批判するサイトの首謀者は東本願寺と決めつけ、本願寺の木像本尊を批判しています。
 しかし、文献によれば蓮如上人は山科本願寺に木像本尊を据えられたと記録されていますし、覚如上人も形像本尊を下付されたとされています。
 このようなことを考えると、絵像・木像を礼拝しているからといって、必ずしも間違いではないように思いますが、いかがでしょうか。



【回答】


 浄土真宗において最も尊ぶべきもの(本尊)は、阿弥陀如来あるいは名号であることは常識だと思いますが、私たちを救う力があるのは金ピカの仏像でもなければ、紙に描かれた文字でもありません。これらのものは、マッチ1本で灰になってしまうものです。

 本当の阿弥陀如来や名号は、形のあるものではありませんし目にも見えません。ですから本来の「本尊」には形など無い(永遠普遍的なものである)と思いますが、ここでは「礼拝対象としての本尊」について説明していきます。

 もともとお釈迦様の教えには仏像や、紙に描いた本尊という発想はありませんでした。仏像が作られるようになったのは、お釈迦様が亡くなられて500年以上たってからであり、他宗教の文化の影響を受けて作られるようになったといわれています。つまり、本尊への礼拝は、古来の仏教の教えではありません。



 浄土真宗における本尊の意義について考えてみますと、親鸞聖人ご真筆の名号本尊の裏書には「方便法身尊号」と書かれてありますから、これは方便法身としての本尊ということになります。

 方便といいますのは、真実の分からない私たちを導くための手段として、相手に合わせて説かれる教えのことです。
 相手の考え方や習慣、仏教の理解の度合いによって方便の教えは変わりますので、「必ずこうでなければならない」というものではありません。

 ところが上記のサイトでは、

> 言うまでもなく仏教で本尊とは、
> 本来最も尊重さるべきものであり、
> 根本に尊ぶべきものであるから、
> 信奉者にとっては
> 唯一、絶対、永遠、普遍、不可分の
> ものでなければならない。


と主張し、親鸞会発行の「法戦4集」では、

> 教えに狂った絵像、木像を本尊としているようではその教えも狂ってしまうことは当然でしょう。そのような教えを求めていても絶対助からないのは当り前です。

と東西本願寺を攻撃しています。



 まず、名号本尊が「唯一・絶対」であり、木像・絵像では救われないのか、ということについて考えてみましょう。

 もし名号本尊を礼拝しなければ救われないのであれば、親鸞聖人は救われておられませんし、お釈迦様時代は本尊さえ無いのですから、誰も救われなかったことになります。



 なお、親鸞会発行の「こんなことが知りたい2」には、

> 親鸞聖人御自身、生涯御名号のみを本尊として仰がれただけでなく、弟子や同朋達にもお勧めになったという事実は、種々の記録によって極めて明らかです。(こんなことが知りたい2)

と書かれてありますが、実際は、親鸞聖人が名号本尊とされたのは晩年になってからと言われています。

 少なくとも、法然上人のお弟子であった時代に、師匠が木像本尊を礼拝しているのに反して、一人だけ名号本尊を礼拝していたとは考えられません。(まして比叡山ではありえません。)

 このように、親鸞聖人のなされたことにまで平気で嘘を書き、自分の都合の良いように歴史的事実をネジ曲げるというやり方は、親鸞聖人を尊敬する気持ちが少しでもあったならば出来ないことだと思います。



 また、親鸞聖人の書かれたものをどれだけ探しても、礼拝対象をどうすべきかということは、一切書かれていません。

 親鸞会が主張するように、本尊が「唯一、絶対、永遠、普遍、不可分」であり、「本尊が狂っていたら絶対に助からない」というほど重要なことであれば、なぜ一言も書かれなかったのでしょうか。

 覚如上人も、親鸞聖人が名号本尊を礼拝されていたという事実は記されていますが、だから名号本尊にしなさいとは教えられていません。

 親鸞会でやたらと重要視される御一代記聞書の「当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号というなり」のお言葉も、「(前々住上人)仰せられ候」と書かれていませんから、弟子の言葉であると考えられます。

(百歩譲って、仮に蓮如上人のお言葉だとしても、名号本尊が唯一絶対であるならば、「木像も絵像もダメ、名号のみが正しい」と説かねばならないはずであり、「木像よりは絵像…」と教えられた蓮如上人は嘘つきということになってしまいます。)



 つまり、善知識方の書かれた聖教のどこにも、礼拝対象をどうすべきかという教えは存在しないのです。

 もちろん、親鸞聖人が晩年に名号本尊を礼拝されていたのは事実ですし、あえて木像や絵像を本尊にする理由もありませんので、東西本願寺のやっていることが良いとは思いません。

 しかし、親鸞聖人が重視されたのは、「礼拝対象」ではなく「教えの内容」ですから、お聖教に書かれていないことを殊更に重視し、本願寺を攻撃するやり方には違和感を覚えます。

 要するに、名号本尊でなければ救われないという教えを捏造し、本尊を「本願寺を攻撃するための道具」として悪用しているだけではないでしょうか?



 もし、本尊について問題にするのであれば、お聖教に書かれてあるのは「本尊を取り返してはならない」ということと「本尊に知識の名を記してはならない」ということの2つだけです。(改邪抄)

 この両方に親鸞会は違反しています。

 ある講師が、「親鸞会の本尊は貸与なのだから、返すのが当然だ」と言っていたそうですが、親鸞聖人が本尊のレンタルなどをされたでしょうか?

 まして、退会しようとしている人の家に多人数で押しかけ、夜中の3時まで居座って返却を迫るというやり方は、明らかに改邪抄の教えに反するものです。

 また、親鸞聖人の御真筆の名号本尊に「親鸞」の2字を貼り合わせ、知識の名を記した本尊を捏造しています。

 さらに、低額で作成した本尊に対し、高額の御報謝を要求し、金儲けの道具として使っているとしか思えません。



 お聖教には無い「木像・絵像本尊」は異常なまでに問題にするのに、お聖教に明らかに反する「本尊とり返し、貼り合わせ本尊」を平気で行うということは、最初から教えに従おうという気が無いのだと思います。

 親鸞会にとっての「本尊」とは、「本願寺を攻撃するために」「やめようとする会員を引きとめるために」「金を儲けるために」最も重宝なものだという意味なのでしょうか?

 もしそうだとすれば、「本尊が狂っているから助からない」というのも当たっていると思います。

質疑応答209

【質問】


 親鸞会では、よく縦の線と横の線をひき、左端に「人生の目的」=18願=信心決定=無碍の一道 と書いて、ここを進んでいって、この世界にでるのだと説明されます。
 あの、横の線を進んでいくという表現自体は、親鸞聖人の教えに照らし合わせて、正しいのでしょうか?
 また、「真剣に信心決定を求める」ことは良いことなのでしょうか?悪いことなのでしょうか?



【回答】


 まず、最初にお願いですが、当サイトでは質問はメール(タイトルに記載)にて受け付けておりますので、次回からはそのようにして頂けますでしょうか。



「横の線」と「縦の線」ということにつきましては、親鸞会独自の「二河白道の譬え」の解釈が元になっていると思われます。

「二河白道の譬え」の詳細な説明は省きますが、この譬えでは、火の河、水の河に行く手を阻まれて一歩も進めなかった行者が、弥陀の呼び声を聞いてから、白道を一歩、二歩と進んで、やがて浄土に到達すると説かれています。

 この譬えを「横の線」と「縦の線」に当てはめるなら、「横の線」は弥陀の呼び声を聞いてから浄土往生するまでの道程、「縦の線」は浄土往生した時ということになります。



 ところが、親鸞会で説かれる「二河白道の譬え」は、親鸞聖人の教えと全く違います。弥陀の呼び声を聞いていない行者が、火の河、水の河をかき分けて白道を進んでいき、進んでいった先で呼び声を聞くというオリジナルの譬えです。

 親鸞会で説かれている「横の線」と「縦の線」の話は、このオリジナル二河白道に基づいて作られていると考えられます。

 ですから、親鸞聖人の教えを示したものとは言えないと思いますが、これは別のことを示した図なのだと反論されるかも知れませんので、断定は避けておきます。



 ついでに申しますと、親鸞会では19願の善の実践が「白道」を進むことになると教えていますが、19願の行者は化土に向かっていますので、浄土への道のりである「白道」に乗っかっているはずがありません。

 親鸞会の人たちは、18願と19願を足して2で割った「18.5願」というのを求めているのではないかと思います。



 次に、「真剣に信心決定を求める」ということについてですが、質問者の方が、どのような意味で、この言葉を使っているのか分かりませんので、何ともお答えしようがありません。

 親鸞会の活動のようなものを指して尋ねておられるなら、今まで何回も述べてきた通りで、当然、間違っているとお答えいたします。

質疑応答208

【質問】


「邪に対する怒りは信仰のバロメータ」であると親鸞会で教えられますが、これは正しいのでしょうか。


【回答】


 親鸞会では、怒りにも「良い怒り」と「悪い怒り」があると考えています。

 そして、邪に対する怒りは、「良い怒り」であり、信仰が進めば進むほど強くなると教えられています。

 しかし、これは仏教と正反対の考え方です。



 まず、仏教では、怒りという感情は、「自分が正しく、相手が邪である」という考え方から起きると説かれています。

 相手が邪であると思うからこそ、怒りが起きるのですから、どんな怒りも「邪に対する怒り」です。

 どんな理不尽なことで怒っている人も、本人は「自分が正しく、相手が邪である」と思い込んでいます。そうでなければ、怒りは起きません。



 ですから、「邪に対する怒りは信仰のバロメータ」というのと、単に、「怒りは信仰のバロメータ」というのは同じ意味です。

 仏教では、怒りは悪だと教えられていますから、怒りを起こすほど、信仰が進むということはありえません。(信仰という言葉の意味も不明瞭ですが)

 もし本当に相手が悪を造っているのであれば、その相手は自因自果で苦しんでいるはずです。そういう相手に対しては、怒りを起こすのではなく、慈悲の心を起こすのが仏教の教えです。



 このように書くと、「蓮如上人が、切り刻みても飽くかよ、と仰っている」と疑問に思われる方もあるかも知れません。

 仮に、このように仰ったのが事実だったとしても、これは蓮如上人にも煩悩を出される面があったというだけのことです。

 蓮如上人といえども、仏様ではありません。煩悩で、怒りを起こされることもあります。これは仕方のないことです。



 よく親鸞会の説法では「親鸞聖人が万引をされることもありうる」という説明を聞きましたが、信心決定しても煩悩を起こすことはあるのです。だからといって、煩悩を起こすことが奨励されているわけではありません。

 例えば、善知識といわれる人が不倫をする可能性もありますが、「不倫は信仰のバロメータだ」といって奨励されることがあるでしょうか?

 仏教の考えからいえば、怒りを起こすのも、不倫をするのも、優劣はありません。怒りを起こしてしまったときは、「これは良い怒りなのだ」と正当化するのではなく、煩悩の起こしてしまったことを懺悔していくのが仏教なのです。

質疑応答207

【質問】


ブログ「奥越親鸞学徒の集い」に、東本願寺(真宗大谷派のことだと思いますが)の教義を、

「こんな呆れた教義を
 体験至上の異安心の輩は
 真実と宣伝し、
 親鸞会を非難攻撃して
 いるのだから、
 おそまつ至極である。」


とあります。私は親鸞会を批判しているのは脱会した人だと思っていましたが、
ここまで読んできて一体何のことだか分からなくなってきました。

・「体験至上主義の異安心の輩」というのは誰のことなのでしょうか。
・その首謀者は東本願寺の教義を「真実」といって宣伝しているのでしょうか。
・このブログは一体誰を批判しているのでしょうか。

分かる範囲で教えていただければと思います。
よろしくお願いします。



【回答】


 最初に、確実なことは、上記ブログの管理人にしか分かりませんので、あくまで私の親鸞会での経験から予想した回答となることを御了承ください。



 まず、親鸞会という団体は、「レッテル貼り」というのが大好きな団体だと、私は感じています。

 戦時中の日本では、「鬼畜米英」と教え込み、英米人には角が生えていると本気で信じている国民も少なくなかったと聞いたことがありますが、似たような状況だと思います。

 例えば、私が親鸞会にいた時でも、「本願寺では、(信心が無くても)念仏さえ称えていれば浄土往生できると説いている」と、何回も聞きました。

 何万人という東西本願寺の僧侶の中には、そのように説いている人もあったかも知れませんが、まともに勉強している僧侶ならば、そんな教え方はしませんし、当然、東西本願寺の公式見解でもありません。

 しかし、親鸞会の会員の多くは、自分の目で確かめるということしませんので、上司から言われたことを、そのまま信じてしまうのです。



 さて、上記ブログには、「体験至上主義の異安心の輩」が、親鸞会を批判していると書いてありますが、親鸞会を批判しているサイトを検索すると、その殆どが、親鸞会の元会員によって運営されています。

 そして、上記ブログの内容も、それら批判サイトの反論という形で書かれていますので、元会員の批判者に対して「体験至上主義の異安心の輩」と表現していることは明らかです。

「体験至上主義」の意味も不明瞭ですが、最近の顕正新聞などを読むと、「信心決定の体験談ばかりを話し、そのような体験談を聞くだけで救われる」という教えのようです。

 実際には、どの批判サイトを読んでも、信心決定の体験談など載っていませんし、そのような説法をしているという話も、聞いたことがありません。(清森問答に、かつてS講師の体験談を投稿として掲載したくらいです。)

 ですから、これも「レッテル貼り」ではないかと思われます。



 そもそも、昔は、高森先生は説法で「信心決定の体験談」を度々話していましたし、高森先生の初の著書である「獲信の記録」は、信心決定の体験談ばかりが収録されています。

 親鸞会の言い方だと、高森先生も「体験至上主義の異安心の輩」だったということになりますが、この程度のことも隠蔽されていて知らないのです。



 次に、東本願寺の教義云々の件ですが、これも批判内容の「すり替え」を行っているだけで、批判サイトと東本願寺とは、特に関係ないと思われます。

 例えば、かつて親鸞会では、高森先生の出身団体である華光会を批判するために「これが獲信か」というパンフレットを作っていましたが、その中には、華光会と全く関係ない土蔵秘事についての内容を書き、それを批判することによって、華光会が土蔵秘事であるかのような印象操作を行っていました。

 ですから、親鸞会としては、批判に対してまともに答えられないので、「批判サイト」=「東本願寺」とレッテルを貼り、東本願寺を攻撃することによって、会員には批判サイトが間違っていると印象づけようとしているのだと思います。



 いずれにしても、親鸞会の教義に対する批判に、まったく答えられないことが、原因であると思います。もし、批判に答えられるのであれば、サイト名や、アドレスを明示し、内容を引用するはずです。

 数年前までは、親鸞会に対する批判は、どんな些細な内容でも「法戦」に掲載し、会員に徹底していました。相手によりますが、相手の氏名や寺院名も公開していました。

 もちろん、相手からの批判の文章も、そのまま引用しており、その内容を歪曲するようなことは、余りしませんでした。論破する自信があったので、そんな汚い手段に出る必要がなかったのです。

(「本願寺なぜ答えぬ」だけは勝ち目がないと思ったようで、相手の主張を引用せず、歪曲して会員に伝えています。)



 ところが最近は、相手の名前やサイト名を特定せず、批判の内容を歪曲して掲載しています。

 批判内容を歪曲するのは、批判に答えられない証拠です。そのことが会員に発覚しないように、相手が誰かということも隠さざるを得ないのでしょう。



 批判サイト側から見れば、「そんなことは主張していない」と反論しても、「あなたのサイトのことではありません」と言われれば、それまでです。

 それに、「体験至上の異安心の輩は…」と書いてある文章に反論すれば、「あなた達は、やっぱり体験至上主義の異安心なのですね」と言われてしまいます。



 そういうわけで、このような書き方は、親鸞会の教義の誤りを隠し、批判から身をかわすために、非常に効果的な方法だと思います。

 その狡猾さには感心しますが、こんな下らないことを研究する時間があるのであれば、少しでも正しい教学を勉強してほしいと思わずにおれません。

質疑応答206

【質問】


 親鸞会の公認ブログである「浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い」に、書いてある記事について質問します。

(本来は管理人に尋ねるべきでしょうが、受付先も不明で、コメント欄は都合の悪い質問は一切表示されませんので、清森さんにお尋ねします。)


 このサイトでは、親鸞聖人は、

>「まことの善ができると思って
> 一生懸命にやってみたが、
> 善をやっても雑毒の善しかできない。
> まことの善などできる私ではなかった。
> 出離の縁がかりの全くない私だった」

と知らされた方だと主張しているようです。


 一方で、次のようなことも書いてあります。

> 二千畳で聴聞した人ならば、
>
>「我々のやる善はたとえ
> 雑毒の善であっても善は善であり,
> 善は大いにしなければならない。
> しかし,私達の善で
> 出離は絶対できない。
> 迷いの世界から出て離れることが
> できるような真実の善はできない」
>
> と常に説かれいることは
> 周知の通りだ。


 結局のところ、親鸞会が会員に勧めている善は、「まことの善」なのでしょうか、「雑毒の善」なのでしょうか?



【回答】


 親鸞会が主張するように、「まことの善」ができると思って一生懸命やった人にしか、「まことの善ができない自分」と知らされないのであれば、当然「まことの善」を勧めなければなりません。

「雑毒の善でもいいからやりなさい」と勧めているのであれば、「善は出来る」ということが知らされるはずです。(雑毒の善なら出来る)

 親鸞会で勧める善を、いくらやっても、「まことの善が出来ない自分」と知らされるはずがありません。「まことの善」を勧めていないのですから。


 こんな自己矛盾した記事を、平気で載せてしまうということは、よほど仏教が分かっていないのだと思います。



 さて、私達にできる善と、私達にできない善の違いについてですが、親鸞会の教えと、仏教とはまったく違います。


 仏教では、善には「無漏善」と「有漏善」があると教えられています。

「無漏善」とは、煩悩の混じらない善ということで、これが出来ないと仏になれません。凡夫の私たちには出来ない善です。

「有漏善」とは、煩悩の混じっている善ということで、私たちにも出来る善です。


「有漏善」は、善をしても認められなかったり、喜んでもらえなかったりすると、怒りの心が起きてきます。この怒りを「毒」と言い、このような善を「雑毒の善」と言います。

 十分に認めてもらっていたり、心に余裕があれば、必ずしも怒りを起こすわけではありませんので、「有漏善」=「雑毒の善」とイコールの関係ではありません。



 仏教では、「雑毒の善」でも良いからやりなさい、と説かれることはありません。毒で苦しむわけですから、当然、「雑毒の善」にならないように教えられます。そのために「三輪空」の実践を勧められるのです。

 しかし私たちは、有漏善しかできませんから、結果的に「雑毒の善」になってしまいます。これは仕方のないことです。

 あくまで、「仕方ない」ということであって、「雑毒の善」を奨励されているわけではありません。最初から「雑毒の善」でいいと思って善をしているとすれば、そんなものは有漏善ではなく、「悪」になります。



 では、親鸞会で勧められている善は、「無漏善」でしょうか、「有漏善」でしょうか?

 もうお分かりだと思いますが、「無漏善」でも「有漏善」でも、ありません。「悪」になります。


 参詣目標、顕正目標に追われての「法施」、御報謝目標の達成や、真実開顕賞などの名誉欲をエサにぶらさげての「財施」などは論外です。

 目標や賞があったほうが頑張れる、と言い訳するかも知れませんが、目標や賞を無くしたら頑張れなくなるようなものは、布施とは言いません。

 こんなものを設定している時点で、親鸞会の活動は布施ではありませんと宣言しているようなものです。


 また、自身の信心決定のための「宿善」になるから、という理由での善の実践も、仏教の趣旨から大きく外れるものです。

 相手を、自分が助かるために利用しているだけです。


 結局のところ、親鸞会の人集め、金集めに利用されてしまっていることに、早く気付いていただきたいと思います。

質疑応答205

【質問】


 親鸞会OBネット(http://www.shinrankai-ob.net/)というサイトが、親鸞会の圧力によって潰されてしまいました。
 特専部長と思われる人物から、以下のような内容の内容証明郵便が送られてきたということです。
 このような親鸞会のやり方について、どのように思われますでしょうか?


> 当職は、浄土真宗親鸞会(以下,単に「親鸞会」といいます)の代理人として,以下の通り通知いたします。
>  貴殿は、「shinrankai-ob.net」というドメイン名を使用して,「親鸞会OBネット」というサイトを運営しています。
>  同ドメイン名には,「shinrankai」という文字が含まれているため、閲覧者は親鸞会が運営しているものと誤認混同します。また、その名称にも「親鸞会」の文字が含まれているため,この点からも,閲覧者は同サイトを親鸞会が運営しているものと誤認混同します。貴殿の行為は氏名冒用による人格権の侵害に当たり,違法です。従って,直ちに上記サイトを閉鎖し、ドメイン名の使用も停止することを要求します。
>  もし,本書到達後2週間以内に何らかの措置もとられない場合,当職としては,法的手段を執る所存ですので,その旨ご了承ください。
>  尚,本件については,一切を当職が受任しておりますので,今後の連絡は,親鸞会に直接することなく,必ず当職宛にお願いいたします。




【回答】


「氏名冒用による人格権の侵害」云々と書いてありますが、本当の理由は、親鸞会にとって都合の悪い事実が書かれているため、会員に見られたくないということでしょうね。
 最初から、知られたら困るようなことをしなければ良いだけのことですが、このような方法で隠蔽しようという体質は、仏法者とは思えません。

 そもそも、「親鸞会」という名称は、親鸞聖人に対する「氏名冒用による人格権の侵害」ではないでしょうか?
「親鸞会」という団体名には、「親鸞」という文字が含まれているため、親鸞聖人の御教えが説かれているものと誤認混同します。

 教義的な誤りを改める気がないのであれば、「高森会」など、適切な団体名に改めるべきだと思います。

質疑応答204

【質問】


 今回の清森問答を読ませて頂いて、親鸞会の会員が「偽なる者」「虚なる者」ばかりであるならば、19願の善を勧めている親鸞会のやり方は正しいようにも思うのですが、どうなんでしょうか。



【回答】


 結論から言えば間違っています。

 まず、19願の教えは、少なくとも外道から離れた人に勧められています。親鸞会で教えられている「因果の道理」は、仏教で説かれている「因果の道理」と全く違いますので、親鸞会は基本的に外道です。

 ですから、19願の教えを説く対象とは言えません。



 また、親鸞会では、「必堕無間の一大事を解決するために」「信心決定するために」、善をしなさい、と教えています。

 このような善は、19願の善とは言いません。

 19願では、「発菩提心」と誓われていますが、菩提心とは、「仏になりたい」「他人を幸せにしたい」という心です。仏様の仕事は、他人を幸せにすることですので、この2つは本質的に同じ心です。(「医者になりたい」というのと、「他人の病気を治したい」というのは同じ心ですよね。)

 仏様は、苦しんでいる人を助けるために、喜んで地獄に行かれる方です。自分が地獄へ堕ちたくないから善をする、というのは方向が正反対です。

 龍樹菩薩も、十住論に『説法の中で、地獄の諸苦を説く時、このような苦しみを早くすべて尽くして、浄土に往生することが、わが身の利益であると説く人がいるが、これは、魔が説教者に化けているのであって、魔事である』と書かれています。



「信心決定するために」善をするというのも、おかしな話です。19願の善を修する目的は化土往生するためです。親鸞会では、化土往生を否定しているのですから、19願の善など勧める理由がありません。

 親鸞会の人は、「化土往生できないことが知らされるため(善が出来ないことが知らされるため)に、19願の善に励むのだ」と主張するかも知れませんが、お釈迦さまも親鸞聖人も、そのような説き方はされていないのです。



 そもそも、「善が出来ないことが知らされるために、善をやる」という教えは仏教にはありません。善をやろうとした結果、善が出来ないと知らされることはあるかも知れませんが、最初から出来ないと知っているなら、やらないでしょう。

 お釈迦様は、キサーゴータミーという女性に、「死人を出したことのない家から、ケシの実をもらってきたら、死んだ子供を生き返らせてあげよう」と仰いました。
 最初から、子供が死んだと納得できる女性であれば、このように言う必要はなかったのですが、キサーゴータミーは子供の死を認めることができなかったのです。

 この時に、お釈迦さまが「子供は生き返らないということが知らされるまで、死人を出したことのない家を探してこい」と仰ったら、キサーゴータミーは従ったでしょうか?これでは方便になりませんね。

 もし、親鸞会が、19願の善を勧めていると主張するのであれば、「善を修めていけば、阿弥陀仏が往生させて下さいますよ」と説かねばなりません。「化土往生はできない」とか「善が出来ないと知らされるために」などと言っていては、19願にならないのです。

 親鸞聖人は三願転入されたと仰っていますが、親鸞聖人は「善が出来ないと知らされよう」と思って善を修めておられたのでしょうか?
 親鸞聖人が善を修められた心と、親鸞会の人が善をする心が、まったく違うのです。



 最後に、親鸞会で教えられている「善」は、実態は親鸞会に都合のよい「人集め」「金集め」であって、仏教で教えられる善ではありません。悪になります。

 これについては、今まで何回も書いてきたことですので、詳しくは説明しませんが、親鸞会には、まずは悪をやめることから始めていただきたいものです。

質疑応答203

【質問】


 親鸞会では化土について教わった記憶がほとんどありませんが、親鸞聖人は、なぜ化土について説かれたのでしょうか?



【回答】


 親鸞聖人が化土について教えられているのは、教行信証の化土巻です。化土巻は、文字数でいえば教行信証の3割以上を占めており、非常に重要な教えであることに間違いありません。

 ここで親鸞聖人は、化土往生を、19願・20願の往生として説かれています。話が複雑になりますので、今回は19願の往生に絞って説明したいと思います。親鸞聖人は19願の位置づけについて、以下のように書かれています。


●しかるに濁世の群萠・穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なる者は甚だもって難く、実なる者は甚だもって希なり。偽なる者は甚だもって多く、虚なる者は甚だもって滋し。ここをもって釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく所有海を化したまふ。すでにして悲願います。「修諸功徳の願」と名づく、また「臨終現前の願」と名づく、また「現前導生の願」と名づく、また「来迎引摂の願」と名づく、また「至心発願の願」と名づくべきなり。(化土巻)

 このように親鸞聖人は、外道を離れ、仏門に入った人の中に「真なる者」「実なる者」は非常に少なく、「偽なる者」「虚なる者」が非常に多いと説かれています。
 そこで、「偽なる者」「虚なる者」を真実に導くために誓われたのが19願であると教えられています。

「偽なる者」「虚なる者」は、口では「浄土に生まれたい」と言っていても、心では「真実の浄土」に生まれたいとは思っていません。本当の浄土とは、私達の煩悩が喜ぶような世界ではないからです。


●大楽あるがゆえに大涅槃と名づく。涅槃は無楽なり。四楽をもってのゆえに大涅槃と名づく。何等をか四とする。一つには諸楽を断ずるがゆえに。楽を断ぜざるは、すなわち名づけて苦とす。もし苦あらば大楽と名づけず。楽を断ずるをもってのゆえに、すなわち苦あることなけん。無苦・無楽をすなわち大楽と名づく。(真仏土巻)

 私達は楽しい世界を浄土だと思っていますが、楽しいことがあれば、楽しみが終わったときに苦しみを感じます。苦しみを感じる世界は浄土ではありません。だから、浄土は楽しみを断じた世界だと説かれています。

 ここでいう楽しみとは、煩悩の楽しみです。浄土は「浄らかな世界」という意味であり、仏教で「浄らか」というのは、「煩悩の穢れがない状態」を指しますから、浄土に煩悩の楽しみがないのは当然のことです。

 このような「真実の浄土」に生まれたいという心が起きない人に対しては、方便として、私達が生まれたいと思うような世界としての浄土が説かれています。これが化土に当たります。



 親鸞聖人は、化土のことを「辺地懈慢」とも仰っています。
「辺地」とは、境界線のある世界という意味で、誰でも自由に入ることのできない世界です。
「懈慢」の「懈」は懈怠ということで、怠惰な世界。「救われるまでの辛抱だ」と思って頑張り、「救われたら楽をしよう」と思っている人の行く世界です。
「慢」は「キョウ慢」ということで、自分たちの世界以外の人を見下す心があるので、このように言われます。

 以前、親鸞会館のことを「この世の浄土だ」と言っている人がありましたが、「この世の化土」と言ったほうが正しいと思います。
 また、親鸞会の殆どの人が想像している浄土は、「化土」であると考えられます。

 もちろん、こんな世界に生まれさせることが仏教の目的ではないのですが、「偽なる者」「虚なる者」には、煩悩を離れた世界に生まれたいという心がありませんので、方便として説かれているのです。



 では、化土に生まれるには、どうしたら良いと説かれているでしょうか?
 19願では、「発菩提心 修諸功徳」と誓われています。これは、他人を幸せにしたいという心を起こして、善を修めることです。

 他人を幸せにしようとすると、問題になるのが煩悩です。我欲や怒りに振り回されていては他人を傷つけるばかりで、幸せにすることはできません。そこで初めて「煩悩から離れたい」「浄らかな心になりたい」という願いが起きるのです。



 このことを、親鸞聖人は、次のように仰っています。

●しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利格別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。(化土巻)

 このように、19願の善は、「欣慕浄土」つまり、真実の浄土を願わせるための方便の善であると説明されています。

 当然ながら、いつまでも化土往生のままで良いという教えではありませんので、真実の浄土である報土往生を願う身になりなさいと説かれているのです。



 ですから、真実の浄土に生まれたいと願っている人には、19願の教えを説く必要はありません。親鸞会では、「すべての人に19願から説かねばならない」と教えているようですが、どこに根拠があるのか疑問です。

 しかし、「早く救われて楽になりたい」とか、「浄土に往生したら八功徳水の温泉でゆっくりしたい」とか、「煩悩から離れたいと思わない」というような人には、19願の教えが方便になると親鸞聖人が教えられていますので、19願の教えが全く不要だと考えるのも誤りということになります。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。